うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『数量化革命』アルフレッド・クロスビー その1

 ヨーロッパ帝国主義がこれほど成功したのは、彼らがもっていた現実世界を数量化して見るというメンタリティによる、と前書きに書かれている。汎測量術(パントメトリー)の歴史をわかりやすく説明する。

 

 第一部 数量化という革命

 ヨーロッパが現実世界(リアリティ)の万物を数値化するようになったのはいつからか。プラトンアリストテレスはこの数値化、計量化には懐疑的だった。プラトンが志向したのは数学の抽象的な美、現実から乖離した秩序などの数秘学的傾向だった。古代には現実世界と数学はつながらないものとされていた。他の文明と同様、ヨーロッパでも数学と、計量・計測は別のものになっていった。

 ルネサンス期になると大量の民兵を規則正しく動かすために幾何学の知識が不可欠となった。

 「いまや将校は有能たらんとすれば、「代数と数字の大海原を骨折って進む」か、数学者を雇って助力を求めなければならなかった」。

 ――新しいタイプの戦争は歩兵を単なる数量に変えていった。彼らは古代ギリシアの重装歩兵隊(ファランクス)や古代ローマの歩兵隊の兵士たち以上に、自動装置(オートメーション)のごとく画一的に行動することをしこまれた。

 いつ、なぜ、このような数量化革命が起こったのかは永遠のなぞだ。筆者はこの革命の年代を一二五〇年から一三五〇年のあいだと考える。このときに機械時計と大砲が生まれ、ヨーロッパ人が時間と空間を数的に把握する方法を生み出したのだという。

 数学にはいろいろな科学に応用することができるという面と、現実から隔離した数の宇宙という面がある。プラトンは後者に関心をもち、ヨーロッパ人は前者を発展させたのだった。

 「敬うべきモデル」、すなわち数量化以前のヨーロッパ人の世界とはいかなるものだったか。まず彼らはキリスト教、そして聖書に基づいて世界を認識する。地球は宇宙の中心であり、時間と空間も人間が理解できる次元のものである。

 教父たちは西暦を基準に天地創造が何年前におこったかを計算した。同様にいつ終末が訪れるかも算出した。彼らにとって永遠とは時間の枠をこえた超越的なものだった。

 「彼らは現実世界を、時と所によって差異のある不均質なものと認識していた」。

 地球の反対側ではまったくちがう法則が働いているかもしれない、またノアの洪水以前の人間ははるかに体格がよく長寿だった、など。

 炎が上昇し石が落ちるのは物の本質が異なるからで、これは神が定めたものである、と考えられた。旧世界の説明には象徴が好んで用いられた。イエスの磔刑は時間の転回点であり、エルサレムは世界の中心である。これが物理的に正しくないことは問題ではない、なぜなら世界を定めているのは聖書で、聖書が中心だといっているからだ。

 『ダニエル書』の四世界帝國論……バビロニアが黄金の時代、つづいて銀の時代、青銅の時代、そして鉄の時代たるローマ帝国がやってくる。このつじつまをあわせるために当時の歴史家はカロリング朝ザクセン朝までもローマ帝国の継続とした。

 聖職者たちには時間を精確に計量しようという心持が欠けていた。日付は重視されず、できごとの因果関係もあいまいだった。

 「当時の時間がタコのようにとらえどころのない姿を呈しているので、近似的にしか扱えない」のである。

 ――ある時代から次の時代への移行は――たとえば洪水やイエスの受肉のように――急激に、そして人間から見れば唐突に訪れた。

 大幅にずれてしまった太陽暦を訂正したのはユリウス・カエサルでこれがユリウス暦である。カエサルは「ヤヌアリウスJanuarius第一の月」を年のはじめとした。ユダヤの過越しの祭と区別するため、「復活祭の日取りは今もなお、まるで波立つ水面で反射する光のように、春の数週間の間をめまぐるしく動いている」。前述のようにだれも暦法の精確さに頓着しなかったので、だいぶあとになってようやくグレゴリオ暦が定められたのだった。

 古代の時間は昼と夜をそれぞれ十二分割したものだから、夏と冬では一時間がちがう長さになっていた。noonの由来は教会の定時課のnonaであり、はじめは午後に鐘が鳴っていたがだんだん正午に近づいた。

 たいていの中世人は時間を循環的なものと考えていたが、これは毎日日が昇り季節がめぐるのを経験すれば必然的なことだろう。しかしキリスト教はこの循環時間に逆らった。

 ――神は人類に救済の可能性を授けるために、イエスを遣わして時間という次元に降りたつことにより、直線的な時間という概念を神聖なものとした。

 宇宙は入れ子構造になっていた。純粋な宇宙の外郭世界にくらべて、地球は腐った、堕落した世界だと彼らは考えた。だから地域差もさまざまにちがいない、マンデヴィル卿の『旅行記』によれば……

 ――プレスター・ジョンの王国には砂利の海と呼ばれる海があり、この海には砂と砂利ばかりで水は一滴もないが、「普通の海のように大波をたてて満ちたり引いたりする。四季を通じて凪ぐことはけっしてない」……

 キリスト教的世界をあらわすのにTO地図という興味深いものがある。エルサレムを中心として、その東方がエデンに向かう霊力の強いオリエントであり、西方にあるのが地中海をへだてて向かいあうヨーロッパとアフリカである。いまわたしたちは北を上とするがこのときは東が上だった。さらにこのユーラシアの海のはるかかなたに巨大な無人大陸があると人びとは考えた。ここにたどり着くためには「灼熱の熱帯域」を通らねばならぬ。ダンテ曰く「そもそも対蹠地(アンチポデス)に人間が住んでいるなどと思うのは愚の骨頂だ」。

 

 人びとは神のつくった国、聖書にあらわされた古代王朝の遺跡や聖地を巡礼した。ならば同様に地獄を見つけられないことがあろうか? こうした時代の地図は、「その表現方法が非定量的かつ非幾何学的」だ。よって航海者を導くのではなく信仰者を導く。

 現代から考えると非常に風変わりな世界だが、これを知っていなければ当時の人間の行動は理解できない。

 「中世のヨーロッパ人は正確を期すためにではなく、効果をあげるために数字を用いた」。

 ニーベルンゲンの七の多用や、白髪三千ジョウみたいなものだろう。そもそもこのときにはアラビア数字がまだ使われていない。

 ――「敬うべきモデル」の真の問題点は、これがドラマチックで、時にはメロドラマチックでさえあり、かつ目的論的であるということだ。すなわち、神と神の目的があらゆるものを覆っているということなのだ。

 まず数量化革命の背景を考える。人口が増加し、人びとは東方に進出しスラブ民族と戦った。ペストにもめげず都市と産業が発達し十字軍が遠征した。従来の農民、貴族、聖職者とは異なる、「計算の雰囲気」をもつ人種が勃興した。中世ヨーロッパ社会には「確固たる政治的権威や宗教的権威」がなかった。

 「中心がないゆえに、いたるところに中心が存在する」。

 あらゆる国と組織がうごめき、教皇も権力を独占することができなかった。この時期にメディチ家フッガー家など商人出身の有力者が台頭する。

 ヨーロッパは古典古代とのつながりをもたない地域だった。イスラム教徒の大多数はエジプトやペルシアやギリシアの人間である。この古代の欠如がアリストテレスなどの翻訳によって埋められると、旧来の世界像は説得力をもたなくなった。

 ――「新しいモデル」のきわだった特徴は、正確さと物理的現象の数量的把握、そして数学を、はるかに重視していることである。

 スコラ学者は古典古代の知識を神学に基づいて整理したが、目次が発明されたのはこのときだという。目次による整頓は難解主義やシニシズムを斥けた。聖トマス・アキナスの文章はほとんど数学に近い。支離滅裂だけでなく明晰さもまた中世の側面である。

 十一世紀になり貨幣経済が普及しはじめ、労働や時間も金で計られるようになった。

 「時間に価格がつけられるなら、つまり時間の価値も数字で表現できるというなら、熱や速度や愛情といった分割できない諸々の不可量物も、数字で評価できるのだろうか?」

 西ヨーロッパ人は計量、計算そして金と銀を血眼になって求めた。

 時計じかけの宇宙、世界機械、天空の機械。一五八二年になってようやくグレゴリオ暦が実施された。しかしカトリックに反発するプロテスタントや正教はユリウス暦にこだわった。イスラーム暦はいまでもずれがあり、われわれの太陽暦からは断食月ラマダーン)が毎年移動しているようにみえる。

 スカリゲルは年代学を創始した。時間人間が生まれる。時間は戻らない、神がもっとも好まないのは時間を浪費すること。

 空間の発展……羅針儀で進路を引くためにポルトラノ海図が発明されたのが一二九六年である。これはまだ地球が球形であることを計算には入れていないが、一四〇〇年ころにプトレマイオスが刊行した『地理学』の写本はより精確なものだった。

 ヨーロッパ哲学の基礎はそれまでアリストテレス、「かの哲学者」だったが、ルネサンス期のイタリアに新プラトン主義者たちがあらわれる。プロティノスの著作を読み、太陽を崇拝する彼らは数学にもまた傾倒した。クザーヌスは宇宙には中心も端もないと考えた。

 「空間のどの部分をとっても、その性質や成分は等しい……ほかの天体にも生命体が存在する可能性がある」。

 彼がアリストテレス、スコラ学者らの定性分析にかわって持ち出したのが数量化だった。

 ――彼の思弁は、西ヨーロッパ社会が世界を見る見方が変わり始めていたことを、すなわち定性的な観点から定量的な観点に移行し始めていたことを、明らかに示している。

 十五世紀初頭、ネオ・プラトニストのコペルニクスは、アリスタルコスの太陽中心説を復活させた。宇宙は昔の人間がかんがえていたよりはるかに広大であることがわかった。ジョルダーノ・ブルーノは宇宙は無限に広がっていると唱えて火刑にされた。

 トルデシリャス条約とサラゴサ条約は地球を均等な球体とみなして、これをりんごのように分割している。また彗星の観測により、星のちりばめられたガラスの天球というモデルは崩された。

 十六世紀末には旧世界は粉砕され、ニュートンの「絶対空間」とパスカルが登場する。

 数学と物理学は、はじめは別のものだった。熱や運動量といった、連続したものを数量化する試みがつづけられる。アラビア数字はインドから伝わったものだとだけ判明している。イスラム学者のアル・フワリーズミーの名前は、いまでもアルゴリズム(本来はアラビア数字による計算を意味した)などに名残をとどめている。

 インド・アラビア数字輸入黎明期のヨーロッパ人にとってもっとも理解しがたいのがゼロと桁の値だった。

 「ヨーロッパ人がゼロも一つの実数であることを受け容れるまでに、数百年の年月を要した」。

 ゼロは謎めいていたので占星術師が好んだ。アラビア語ではアル・シフルと呼ぶが英語に伝わるとサイファー(暗号)となった。演算記号である+や-が「一四八九年にドイツで印刷された書物に初めて登場した」。代数の発展。

 数学は抽象的な色合いを帯びはじめたが、「人間の精神は論理的であるのと少なくとも同じ程度に、隠喩や類推を好むという性向を有している」。

 数学と神秘主義は近いところにあり、また数学への美意識が計算の達人を生み出す。インドが純粋数学者を多数輩出したのにくらべ、西洋はエンジニア的科学者が圧倒的に多い。実用的な数学が多い一方で、西洋ではいまも占星術が根強い人気をほこっている。

 ケプラーのことば……

 ――人間が正しく理解できるものは、数と大きさだけに過ぎない。

 

数量化革命

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