うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『小説のために』コリン・ウィルソン その2

 

 第七章 実験

 リアリズムは過激になっていき、ついにジョイスの『ユリシーズ』が出たのだった。彼がしたのは「普通のレンズの代わりに拡大レンズを忍びこませ、リアリティをかつて試みられたこともなかったほどの微細な細部まで示すことであった」。

 二〇世紀の主要な実験的小説はすべて「疎外」を扱っている。

 「この言葉は、高度に機械化された社会に対して帰属意識をもてない現代人を説明するためにカール・マルクスが発明したものである」。

 ――要するに、実験的小説とは何か特に冒険的で新分野を開拓するようなタイプの小説なのではなく、ただ単に、自己についてのイメージや目的を見い出し得ないこと、つまり「帰属できない」ことについての小説であるに過ぎない。

 ヘミングウェイの小説は自己を確信していたが、彼は戦争と暴力しか書くことができなかった、「その技法が作家を悲劇的主題に限定する」。

 

 第八章 思想(アイディア)

 あらゆる作品には思想がある。思想といっても「知的な人物たちがテーブルを囲んで座り哲学について論じあっている」ようなものではない。ヘミングウェイは「突然の危機が部分的な精神を完全にする」と考えた。

 L・H・マイヤーはウィルソンによればすぐれた小説家である。その作品の思想とは作者が人生についてどう考えているか、つまり人生への態度を意味する。あらゆる偉大な小説家は各自の脳内世界を描いている。作家志望者はみな似たような世界を書いていた。ドストエフスキートルストイ、ショーなどは「依然として高度に個人的な作家のままではあるが、その最大の作品においては等しく同一のものを見、それを語っているように思われる」。

 『異邦人』では、「人生の多くの時間を倦怠感のなかで過ごしてきた」人間が死刑のきわになり「わたしはずっと幸福だったし今も幸福だ」と悟る。

 世界を無意味だと考えたものはスタヴローギンからヘミングウェイの人物まで大量にいる。

 「明らかに、年若い自称作家たちのほとんどはkの直接性の世界についてものを書こうとしている……世界でもっとも偉大な絵画といえども、仮にカンパスから半インチのところに鼻つきつけてこれを眺めるならば、それは全く無意味な印象を与えることであろう。日常生活の経験は、大抵がこうした属性を伴うものである……作家にとって問題となるのは、<引き戻す>こと、全体像が眺められるに十分なまでにカメラを遠ざけようとすることである」。

 ヘミングウェイが戦争と勇敢さを、コンラッドが海を、サン=テグジュペリが海を発見したように、日常世界の無味乾燥混沌の対照となるものを見つけ出さねばならない。

 「一作家の「象徴」は根本的には彼自身の<自由>の思想である。そして彼の作品は自由への旅について書かれたものなのである」。

 やがては直接的な世界を超えて鳥の高さにまでのぼらなければならない。

 『イーリアス』のような冒険物語が人間の想像力を飛翔させ、それはやがて小説となった。だが人間は小説にも錠をおろしてしまった。「自由は幻想にすぎない」という結論は、あらゆる作家をヘミングウェイ袋小路、ジョイス袋小路などへ導くことになる。

 ――小説は、ハエ取り紙にくっついたハエのように、直接性にしがみついて、移りゆく事実の単なる記述から脱出することができないでいる傾向がある……小説家の任務は崇高なものである。即ち自分を狭隘さから解放し、「広角」映像を獲得し、そしてこれを彼の読者に伝えることである。

 

 第九章 構成と技法

 魂の欠けている小説とはどういうことか、「強烈さの象徴」が欠けていることであり「汝が強く愛せしもの」が欠けていることである。この自分の執着するものを表現するために、ふさわしい状況を作り出さねばならない。

 「控え目な表現を効果あらしめようとすれば、それは何か重要なものの控え目な表現でなければならない」。

 ジェイムズの『使者たち』の構成は完璧だった。しかし彼は「フローベールの誤謬とでも呼ぶべきもの、即ち構成さえが端正で均衡を保っておれば、他は何も重要ではないという概念の犠牲になったのだ」。

 文体について……ディケンズからはじまる遠回りな、くどい文体を批判する。「錯綜した「喜劇風」文体は言語癌のように蔓延したのである」。ゴールズワージーやベネットの文体は「一種の下痢にすぎない」とする。しかし報告調もまた文体を袋小路においこんだ。

 

 第十章 限界

 自然主義作家の目指した写真的リアリズムには限界があった。ウィルソン曰くジョイスは高画質の映画に向かえばよかった。みなジョイスの限界を知り、それを避けている。フォークナーが難解な手法を用いたのは「情緒を巧く伝える「客観的相関物」を発見できなかった」からだ。『響きと怒り』を平坦に要約するとメロドラマ風である。

 ――彼は陰気な声で「不幸を運命づけられて」とか「呪われた」とかいった言葉を繰り返すことで一種、『神々のたそがれ』的な雰囲気をかもし出し、粗雑さが目立たないように筋立てをきわめて曖昧なものにしておくよう努めている。

 著者はフォークナーをあまり評価していない。かれの難解さは「情感を客観化する一連の事件を」つくれなかったことによるとみなしている。フォークナーは暴力と残虐の世界に抵抗するための善への信仰をもたなかった。セリーヌベケットと同じく、なにも信じない、否定の文学なのだ。

 大抵の作家は現実を否定的なものとみる。しかしそれに対立する力を信じていなければならない。否定はジョイスとはまた別の袋小路に行き着く。カミュベケットについて……彼らにとって世界は無意味でばかげている(absurdo)、カフカにとって人生は悪夢である。ベケットは「ある行為を一種勇壮華美に描き出すことでその行為の愚かしさを浮き彫りにする」というディケンズからつづく秘訣を発見した。

 ――もはや何ひとつ書くことがないように見えるのに書き続けるという、この著者のがんばりを過小評価すべきではない。

 

 第十一章 幻想小説と新方向

 ジョイス以後、ぱっとしない実験作家と、伝統的な小説家とがつづき、新しいジャンルとして「ベストセラー」が生まれた。この新ジャンルの前身は三文小説である。重要な作品と売れる作品の分離がおこった。三文小説がただちに忘れられるのにたいし、一部の幻想小説はいまだに版を重ねている。

 幻想小説が陥りやすい罠は、近景のない遠景を提出することである。日常生活のない遠景がそれにあたるのか。また、瑣末な現実と対比させて神秘の世界を提示したら、それからいったいなにをすればいいのか? 神秘主義について。

 想像力とはきままな妄想ではなく「思想の探索に向けて想像力を駆使する、高度に訓練された能力なのであり、それの法則は数学の法則と同様の厳密さをもつ」。これはあらゆる良作にあてはまることだ。


 第十二章 結論

 まず小説は自分の顔をうつす鏡である。広い風景は自由の感覚をあたえるとアインシュタインが言ったが、この広い風景を写すために小説は広角レンズを用いなければならない。

 ウィルソンは言う、技法は書きながら、読みながら自力で学べ。袋小路を避けろ。否定、どんづまり、小説自体の無意味さにいたるような試みを避けること。

 「最後に、小説は自己充足的な、孤立した世界たらんと意図されているものではない」、これは唯美主義にたいして言っているのだろう。

 「小説は教育的なもの」。

 ――詩人とか神秘家は、こういった多くの非個人的なことが、幸福である理由になっていることをはっきり悟っている。

 否定的な小説も否定的人間にとっては幸福をもたらすだろう。

 人間の日常生活の大半は彼のなかの機械がおこなっている。やがてすべてが機械にとってかわられ、ベケットの本に出てくるような人物に成り果てる。

 「退屈が不毛感を生み出し、不毛感が「機械的」な生き方に導き、その機械的な生き方がさらに退屈と不毛感を生み出す」。

 退屈とおもうのも興味深いとおもうのも自分の脳みそである。

 敗北や悲劇は日常生活から誰でも知っている。小説が書くべきなのは非合理的な自由の輝きである。

 「現代文明の主な主題は、馬鹿と夢遊病者が一杯であることのような気がしていたのだ」。

 読者を退屈させぬために娯楽小説の形式を与えるというのは、子供に飴を与えて話を聞かせるというようなことではなく、「むかしむかし……」と同じ話を聞かせるための慣習なのである。

 日常生活を生き抜くには何も考えないことである。知性はもはや生きていくのをじゃまするものになった。これが『アウトサイダー』のテーマだという。

 ウィルソンも学校を中退してみじめな生活を送っていたようである。ミラーもそうだが、こういう道からはずれた人間はみな人生論を書きたがる。ウィルソンの楽天主義が重要なきっかけになることはまちがいない。

 近景と遠景、しかしときには遠景が否定的な見方ばかりをおしつけることもある。