うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『小説のために』コリン・ウィルソン その1

 原題はThe craft of the novel、小説の構築、工作といったところだろう。作家とその作品のかかわりから小説の書き方を考えていく。

 

 第一章 創作の技法

 「わたしは、創造ということの基本的原理は適者生存だということだという気がしている……作家志望者を奨励することは、雑草の生い茂った庭に肥料をまくようなものだ」。

 フォークナー曰く「彼等は上手に書くが、しかし何も言うことがないんだ」。

 自分が何を言いたいのかについて、自分から適切な答えをひきだすことを学ばねばならない。大抵の小説は問題提起、疑問符をもっている。

 ――わたしの学生が提出した短編のほとんどについてわたしが最も驚いたことは、それらがはっきりした特定の形を持たず、何かはっきりした問いかけを持っていないことだった……彼らすべてに欠けているものは、作家は人生から何を欲するか、彼が何に「なりたい」かということに対する感覚だということであった。つまりヴィジョンとか望みとかいうものを投射しようという試みが皆無なのである。

 人間のアイデンティティの多くは他人に依存する。何を書くか、だけでなく、われわれは「わたしは誰か? わたしは何になりたいか?」ということも同じく考えている。自分がどうすべきかという目的意思がなければよい小説は書けないとウィルソンは言う。

 ――効果的な主人公は……作家自身の努力、彼の目的感、そして自己を反映していなければならないのである。

 しかし彼は、まったくの虚無感と絶望を否定する。何を欲しないかのみならず何を欲するかについて作家は自分を把握しておく必要がある。「自己像の欠如」からは小説は生まれない。ショウの作品群から彼は小説を「その中に小説家が己の本質的な自己を写し出すことを努める一種の夢の鏡」と定める。

 「わたしはほんとうに誰になりたいか?」

 これが作家志望者が答えるべき第一の質問である。作家は自己の側面や理想像を縦横無尽に配置し、それがラスコーリニコフだったりベズーホフだったりするのである。どんな人間でも目的感覚をもっている。この変身ゲームから創造ははじまるのだとウィルソンは言う。

 

 第二章 精神の形成者たち

 小説の歴史において革新的なものはリチャードソン『パメラ』である。それまでのデフォーやセルバンテスの作品は、「犯罪人や浮浪者の生活の「真実の物語」という奴で、ほとんど旅行記と大差なかったのである」。

 当時の大流行のときとは異なり、いまリチャードソンが小説の革新者の一人とされるのは彼が人間性の知識を広めたからではなく「人間の想像力を解放した」からなのである。田舎の暇な読者にとってこの書簡体小説を読むことは想像力の旅をすることだった。

 リチャードソンにつづくルソーは『ジュリー、または新エロイーズ』で文学にあらたな感覚を持ち込んだ。

 ――(すさまじい悲しみと憧れの気分)、どうして人間はこのような奇妙な恍惚、高く天翔ける鳥のような自由の感覚を持てるのだろうか? ……人間は決して達成することができない自由を垣間見ることによって、わざと痛めつけられていないか?

 これにつづくゲーテとシラーがロマン派のはじまりである。

 「人生そのものへの抗議、人間の精神的自由の欠如への抗議、神への抗議」。

 『群盗』はあらゆる「幻視者、夢想家、革命家」たち、チャールズ・マンソン、ロシア・アナーキストまであらゆる人間に影響を与えた。

 この一連の小説黄金時代を経て、小説は衰退期に入ったとするのが一般通念である。

 「プルースト、ジョイス、ベケットといった実験主義者たちも、もはや付け加えるべき新しいものはほとんどないことを、彼等自身で例証しているように思われる」。

 しかし衰退とは具体的になんなのかがはっきりと指摘された例はない。

 

 第三章 衰亡

 「小説が個人的なものになればなるほど、はっきりした「前進する」動きを失うのである……主人公の感情だけに関する筋のない小説に至るのである」。

 リアリズムとペシミズムを経て、小説は停滞した。パステルナークもソルジェニーツィンも、社会的正義より「個人の運命の問題の方が究極的にはもっと重要だと主張しているにすぎない」。これはルソー、ゲーテ、シラーが既に考えていたことである。

 

 第四章 生きることなんか……

 作者であるブロンテの夢想、欲求が『嵐が丘』をつくった。夢見ること、思考の実験を「人間の精神の法則を発見する一つの方法」とすることもできる。

 ――われわれの人間としての基本的な経験は、「限界」の感情である。

 白昼夢と自由の感覚は、小説の基本的な目的のひとつだった。これは阿片と似ている。トルストイは自由について徹底して考えた。

 作家は自分たちの人生への見方を作品に反映させる。ハーディの人物たちはふつうより不運でありディケンズ住民は極端な善人か悪人しかいない。彼によればサキはすぐれた作家である。『バシントン』は傑作だという。

 「退屈が、リアリティとの接触の喪失を生みだしてしまっている……人間の中にある何物かが、もっと深いリアリティを渇望する」。

 なぜわれわれはリアリティとの接触を失ってしまうのか?

 生活が錯雑して困難なとき、われわれは世界を「速読」せざるをえない。世界を走り読みしている。このエネルギー節約の集積が文明である。太陽と自然もあくせく働く農場労働者にとっては意味をもたない。

 「「自然」がこの問題の解決なのではなく、解決はわれわれの内部に存在する」。

 自己憐憫と疲労が、やがて速読された味気ない世界こそあるがままなのだと考えさせるようになる。経験は自分によって再構成されなければならない。

 ――最初に必要なことは、楽天的(optimistic)になること、三次元の意識は二次元の意識よりはリアルでもっと「自然な」ものであると知ることである。

 まとめ……「小説の目的は、広角的意識を作り出すことである……小説とは代用経験である……小説は思考経験の一形式である」、そして阿片のような恍惚とした、そのうえ実在性のある世界をつくる。

 

 

 第六章 願望充足の諸相

 ――十九世紀以来、数多くの小説家たちが、文明によって惹き起こされた、窒息しそうな非現実と不毛感について書き続けて来た。

 偉大な小説家の数人は「人間精神の破壊することのできない自由への能力を示唆することができた」。

 白昼夢があらゆる文学のほんとうの基盤である。言語実験や形式なども小説への接近法には違いないが、小説の実体、本質は、「好ましい」現実、自分が生きたい世界、ありたい人間のイメージをつくりだすことである。この白昼夢が上手に書かれているとたんなる妄想・願望に見えないだけである。人間は「退屈な環境の麻痺的な効果に抵抗するために」、白昼夢によって緊張を導入する。災禍に直面しての勇気。

 ロマン・ガリ『空の根』より……リアリティは「われわれの精神状態がもっとも強烈な瞬間にわれわれが見るところのものである」。現実をつくりだすのは人間の精神である。

 では、巷に蔓延する感傷的な小説もこの理想像の投影なのだろうか? ウィルソン曰く、人間の生命は力と幸福の感情と、それと対立する無力感、偶然性、環境の犠牲者だという感情からなりたつ。

 ――健康な、生命力に溢れた人間は、「幸福」の強力な貸方勘定、自分の運命を自分で統御しているという感情を所有している。不幸でノイローゼの人間は、彼等自身が「偶然」であるという感情を決して逃れることができない。

 「ここから生まれてくる教訓は、願望充足は普通軽蔑をもって見られているが、これが本当はあらゆる創造の基盤なのだということである」。

 リアリズムはこの願望をくるんでいるだけなのである。