うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『戦争論』ロジェ・カイヨワ その3

 

 第三章 全体戦争

 一九世紀は戦争の神聖化の時代だったが、クリミア戦争普墺戦争普仏戦争は限定的なものだった。普墺戦争で使われた弾の数を兵数で割ると、一人あたり一週間に一発しか撃っていない。

 鉄砲が決定的に改良されたのは一八七五年頃であるといわれている。遊底による弾丸装填、連発銃の出現、そして戦術を根本から変えたのが機関銃の誕生である。

 「軍事教練も、自己保存本能によりひき起こされる逃避という反射衝動を捨てさせて、服従という反射衝動を習得させるものとなった」。

 戦争は本能ではなく理性の結実なのである。

 第一次世界大戦で、連合国は115平方キロの土地を奪還したが、1平方キロあたり8233人の犠牲を払った。政治革命が大量動員を可能にし、産業革命が殺戮手段を与えた。これが全体戦争のはじまりである。重要なのは勇気ではなく抵抗と規律になった。勝利を導くのは火力である。兵隊は歯車だ。

 英雄は将軍や指揮官ではなく、人民の大海に埋もれた兵士、そして傷病兵に変わった。無名の戦死者は、自己を抹殺した点において評価された。運命をつかさどるのは偶然である。

 戦争はついに純粋な形式であらわれたのだった。

 第四章 戦争への信仰

 大戦後、時代に追いつかんとするために、戦争そのものの肯定がさかんになった。生物学者ルネ・カントンは戦争を神聖化した。彼の文はほとんど倒錯に近く感じるが、こういうものを読むことも大切だ。彼は戦争を種の性的試練と同一視する。

 「文明は、生きるに値せぬ多くの男を、死の手から救い出す。文明は男を柔弱にし、彼が当然抱くべき憎しみを弱め押し殺してしまう」。

 ――戦場は聖なる場所である。人間はそこで、自分が新しい真実に近づきつつあるのを感じる。そこで人間は、大聖堂のなかにおけるような静寂と無限とを知る。

 雌性は産みの欲望をもつが、雄性は死への欲望をもつ。

 カイヨワは言う、「戦争そのものと同様、戦争擁護論も目的を超越したものとなった……もはや、戦争があることそのものに満足し、それが世界を荒廃させ、人を抹殺することそのものに、人は満足したのである」。

 次は、有名なエルンスト・ユンガーである。『鋼鉄の嵐のなかで』、『火と皿』、『労働者』などで、彼は戦争に陶酔して参加することをよしとした。彼は、「近代的戦争が<人間にとって、技術的な、抽象的な、無人格な、如何ともし難い>ものであることを、少しも隠そうとはしなかった」。彼は自分が戦争の無慈悲を受け入れる以上、戦争は彼に逆らうものではないと考えた。

 戦争という死の工場が人間に要求するのはその機構のひとつとなることである。自分をささげることが偉大なことである。明快な作品『内的経験としての戦闘』について……「この作品のなかに息吹いているのは、壮大な暗黒に満ちたえもいわれぬ熱狂である」。戦争は存在そのものとなり、歴史の永遠の力をあらわにする。そして人間が至高なる意志の道具にすぎないことを示す。大戦争はピラミッドと同じように残る。

 戦争によって噴出する人間のエネルギーを彼は賛美した。彼は人間ではなく人類全体の営為に着目した。個人の小ささを思い知りつつも、人類と美の巨大さに恍惚となるのだ。

 こうした思想は当時の体制によく利用された。

 「すでに平和の時代から、彼らは自国の国民を、巨大な塹壕陣地へとつくりかえ、早くも軍隊的規律のもとにおいてしまった」。

 第五章 戦争 国民の宿命

 全体主義が生れると戦争は国民の宿命となった。平和は戦争を準備するためのものでしかない。法学者バンゼ曰く戦争と文化は人民と国家の基本的な表現様式である。

 ナチスが利用したのはまさにユンガーのような戦争肯定の思想である。ゲッベルスは戦争の恐怖を分娩の苦しみへの恐怖にたとえた。この見方は他にもイスラムやアステカに存在した。

 ――護送船団は最も船足のおそいものに合わせて進むのだが、国際社会は最も攻撃的な国に歩を合わせて進まねばならない。

 大戦ののち、国家構造と経済、教育は、戦争を基軸に改革された。

 「戦争は、規格化された大量生産を促進することとなった」、なぜならまず砲弾が壊れ、また砲弾が壊すものを再建していく必要があるからだ。大量破壊は大量生産のために必要である。

 生活水準の向上などはまさに意図して目標としなければならないが、戦争は自然に社会を導き、またその牽引力はどんな目標よりもつよいものである。

 体制にたいして革命をおこすには旧体制以上の機械化が必要となり、必然的に戦争も激化することになる。

 第六章 無秩序への回帰

 機械化された社会では戦争はお祭りだ。ポール・ヴァレリーも、戦争の力を認めざるをえなかった……「戦争は、平和が存続させているいろいろな表面的なものが、脆弱であり、偽りであることを、容赦なくあばきだす」。

 ――ある戦争の政治目的とその目的に達するために認められた犠牲との間には、何の共通する尺度もありえない。戦争は、<強姦そのもの、罪そのもの>、また不条理そのものである。

 

 平和が神聖なものとする「節度、真実、正義、生命といったものを誇らかにあざ笑うこと、これこそが、戦争のもつ聖なる威光の最高の明証である」。

 兵士はどんなに訓練されていようと獣性をよみがえらせる。タキトゥスゲルマニアにあらわれる野獣人berserkerは、敵を殺すことで奴隷の身分を抜け出した者で、獣の皮をまとい、首輪をつけていた。

 人を殺した兵士はフォン・ザロモン曰く断罪され、人肉を食べた人間と同様別の存在になる。機関銃を撃ち人を殺すことで彼らは感覚のはげしいよろこびを得た。戦争の子となったこれら兵士のなかに掠奪、放火という昔からの習慣がよみがえる。

 アメリカ文明は聖なるものを排除する傾向をもつせいか、戦争を神聖化することばは少ない。だが二度の大戦のあとに、戦争の原始的力を賛美するトマス・ウルフがあらわれた。

 戦争において、精密な機械と原始的な蛮性は融合する。破壊が集団行動の目的となり、死の宗教が生まれる。この倒錯した宗教は、はっきりした形式をとることはないだろうが、それは戦争に人びとが感じる聖なるものをあらわしている。

 第七章 社会が沸点に達するとき

 ここでは戦争と原始社会での祭りの類似が指摘される。祭りは現代思想では重要な意味をもっているようだが、ここでもそうだ。個の独立性は棚上げされる。ともに長期にわたる集団的な秩序破壊であり、価値は逆転する。自分が偉大なものになったと感じ、本能が解放される。

 ほとんど死者のない戦争がある一方で、多大な流血を伴う祭りも存在する。だが死者や怪我人の出る騒ぎを、だれもやめようとしない。祭りは集団的な興奮であり、人を誘惑しひきつける力をもっている。

 では、戦争と祭りの最大の違いはなにか。それは祭りが人民を合体させようとするのに対し、戦争が人民を壊し傷つけようとする行動であるという点である。

 彼は中世を、領土上の境界よりも階級上の境界に重きが置かれた社会と考える。そして戦争をおこなうのは貴族階級だけだった。ここで祭りは、指導者の権力維持のためのものとなった。ポトラッチについて書かれているが、これも敵にたいする優位を示すための祭りの一種だという。「贈り物によって攻撃する」とクワキウルト族は言った。戦争も贈与もポトラッチも、相手を引き離し隔たりを印づけるおこないだ。

 全体戦争の時代になり、戦争は社会全体の高揚となった。国家が戦争を恐れていようと準備していようと、戦争は国家にとって第一の問題となる。国家は他国と競合することを宿命づけられている。

 祭りから戦争への移行は技術と政治組織の進歩とに深くかかわっている。この二つが進歩すると同時に戦争も進歩したのだ。そしてこれからも並行して変わっていくだろう。

 

 結び

 ノルマンディは海でさえもはや障壁とはならないことを証明した。新しい戦争ではパルチザンや第五列の果たす役割が大きいので、中小国家は衛星国になるしかない。
チャーチルは<一般人の士気は軍事目標である>と言ったが、ほんとうは労働力、生命というべきなのだ。戦闘さえなくなった。人びとはただ「生産し、運搬し、破壊するにすぎない」。輸送の速度はあがった。

 戦争は常に、人間のからだに鉄かなにかを打ち込むことだった。

 国家原理をくいとめる術はない。これが至高のものとなったらもう任せるしかない。

 ――人間に奉仕するこの巨大な機構は、目に見えないいろいろな方法により、人間に奉仕しながら人間を服従させている。

 この本によって、原始社会から二度の大戦までの、戦争の推移をみわたすことができた。

 

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 古代から近代総力戦までの戦争の歴史をたどる本。戦争と祭り、戦争と遊戯を並べて検討しており、その性質が時代とともに変化してきたことを明らかにする。この本は第2次大戦までの現象で止まっているが、冷戦を経て、さらに戦争が変質していった点については自分で考える必要がある。

 

戦争論―われわれの内にひそむ女神ベローナ (りぶらりあ選書)

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