うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『われら・巨匠とマルガリータ』ザミャーチン、ブルガーコフ

 

 「われら」
 「1984」や「すばらしき新世界」につながる反ユートピア小説の元祖で、長い間ソ連文学史から抹殺されてきた。

 われわれの文明は二百年戦争を経て完全に消滅し、「緑の壁」とよばれる外に追放された。生き残った一〇〇〇万の人びとは「慈愛の人」の統べる完全な管理国家のなかで生活している。

 主人公D五〇三(住民はすべて番号のみ持つ)は自由という苦しみから解放した国家に忠誠を誓う技術者である。彼の手記により物語は進行する。都市はガラス、幾何学的立体、いまわしい雲のない青空、透明な雰囲気に満たされている。彼らにはそもそもプライバシーは必要なく、「時間律令板」により行動はすべて定められている。

 わたし、という主語は存在せず、「われら」があるのみである。計算と数学、合理性の装飾に満ちて、文体や比喩そのものも科学と数字にひたされている。

 主人公は宇宙船「積分号」に搭載するためにこの手記を書いている。われわれはこの宇宙船が遭遇するだろうどこかの惑星の住民なのだ。

 自由が非合理性を生み、犯罪をのさばらせたのだった。完全な束縛を、アダムとイヴ以来ようやくかれらは手に入れたのである。自由なき幸福の国であり、古代は幸福なき自由である。

 生活と文明のすべては機械化されている。自由な時代には容姿により好意を一身に集める人間と誰からも相手にされない人間がいたものだが、この国では希望の人物に予約することでだれでも「性の日」を得ることができる。雑多な家具や不必要な秘密を生み出す不透明な壁と部屋は排除された。自由はすなわち犯罪であり、国家がこれを野放しにするようでは国家の名を冠する資格もない、と主人公は書く。

 音楽は完全な電子音とリズムの組み合わせである。国家集会で古代の音楽家のピアノ曲が演奏されると、人びとは失笑する。しかしこれほど完全に画一化された人間にも、まだ野蛮の兆候は残っている。演奏にただならぬ感銘をうけるものもなかにはいる。主人公も一瞬だが感激を覚える。

 古代の遺物は古代館にまとめて保存されている。主人公はある女によってここにつれてこられる。彼は疑惑をいだく。この女は古代に執着していないだろうか。友人の詩人(彼は死刑執行を称える詩を献上している)も、なにか体制におもうところがあるようすなのだ。彼はこれをよくない兆候、スパイだと考える。しかし彼も、他の男にたいし嫉妬をおぼえる。嫉妬は性の相手を私有しているという勘違いから生じる。これもまた野蛮な猿の名残だ。

 一見平和に見える集合機械の生活は、まわりの人間により乱されていく。自由をもとめる不穏な傾向。細かいディテールは比喩によりぼかされているが、遠い未来の空気は存分に感じとれる。この国で重要なのは明白であるかどうかだ。主人公曰く、人類の最終形態は定住にある。

 「現在の詩はもはや厚かましいナイチンゲールの囀りではない。詩は国家への服務であり、詩は有用物である」。

 Iという女を中心に、国家に服従しているかどうかあやしい人物たちが集まっている。生意気にも主人公はこの女に執着したことがきっかけに毎日を退屈で無味乾燥したものに感じるようになる。医薬局に行くとかれはIと仲のよい医者につげられる。

 「よくない状態だ! 明らかに魂がかたちづくられたのです、あなたは」。

 緑の壁とは外界の大森林と世界を隔てるガラスの壁である。

 「この壁によって自分たちの完成された機械の世界を、樹木や鳥や動物の非理性的で醜悪な世界から隔離したときに初めて、人間は未開人ではなくなったのである……」。

 

 個人と「われら」の力の比率を考えれば、個人の権利を認めることは一人が一〇〇〇万人に匹敵すると考えるに等しい。われらのほうに権利を置くこと。

 ――そして無から栄光へ至る道とは、己が一グラムであることを忘れ、一トンの数百万分の一である自分というものを感じることにほかならない……

 結局魂とはいまいましい愛のことなのか。個人の極限がそうならばそれがない人間はまさに機械になるしかない。この話は個人が自分ひとりの価値、自由の価値を発見する物語らしいが、「草のつるぎ」は逆にじぶんが群生のなかの一人であることに気づく小説だ。

 ――実に滑稽なことだが、古代の選挙ではその結果すらあらかじめ分かっていなかったのである。全く算定不可能な偶然の上に、盲目的に国家を建設しようという――これほど無意味なことがあり得るだろうか。

 単一国に偶然の要素はない。

 「私はみんなが慈愛の人に投票するのを見るし、みんなもまた私が慈愛の人に投票するのを見る。……これは古代人の泥棒めいた卑怯な「秘密選挙」よりも遙かに上品で、真面目で、高尚である」。

 満場一致の日に予想だにしなかった反対者があらわれ、単一国は一時的に混乱する。その後主人公はIに連れられて緑の壁の外に出る。彼ははじめて土の上を歩き、草木や鳥、動物、太陽に触れた。

 「考えたり見たりする能力をもつ生きものが、不規則性や未知数に囲まれて暮らさねばならないとは、なんと不自然なことだろう」。

 彼は「積分号」を強奪するというIの計画に加担する。単一国の世界を崩すきっかけになるのが、人間本来の感情である。

 『国営新聞』の発表……「諸君は病気なのだ。その病名は想像力という」。想像力を摘出する脳手術が国民のために施行される。

 ――これは諸君の額に黒ずんだ皺を噛み跡として残す毒虫だ。これは諸君を追い立てて絶えず彼方へと走らせる熱病だ……だが喜べ、バリケードは既に爆破された。

 緑の壁が爆破され、ガラスの都市に泥や木の枝や葉が闖入してきて、まさに革命が成就するかにおもえたそのとき、主人公は「慈愛の人」に捕まり、守護官にすべてを打ち明けてしまう。彼は手術にかけられ、彼の手記は機械人間の報告書になる。

 「われらの勝利は私の希望である。そればかりか、われらの勝利は私の信念である。理性の勝利は必定であるから」。

 ――人は幼い頃から何を祈り、何を夢み、何に苦しむのだろう。何者かが現われて幸福の最終的な定義を下し、しかるのちに鎖でその幸福に人びとを繋ぎとめてくれることを、ではないか。

 

巨匠とマルガリータ

 名作と名高いブルガーコフの大長編。

 編集長ベルリオーズと詩人ベズドームヌイが公園で打ち合わせをしていると、なぞの外国人がやってきて無神論についての会話に加わる。黒魔術の研究家と名乗るこの男は、二人に反論してイエスは存在したと主張する。

 彼の話から唐突に場面が変わり、ポンティウス・ピラトがイエスを捕えて尋問している。ピラトはこの男に魅かれていることに気づく。

 教授は気違いではないかと疑うが、すぐにただものではないと悟る。彼はベルリオーズの突然の事故死を予言したのだった。教授と二人の会話はユーモアがあっておもしろい。なぞの男とその仲間と、二足歩行の猫を追跡する詩人ベズドームヌイ。モスクワの風景にそれほど行を費やしてはいないようだ。

 ベズドームヌイは精神病院へ強制移送される。ひっきりなしに大騒ぎが続く。黒魔術師ヴォランドとなのる男はつぎつぎと詩人たちの前にあらわれる。これは不幸が拡大するという話なのか。ヴォランド一味はモスクワ滞在のために邪魔な人間をつぎつぎと遠方へ吹きとばしたり、はり倒したりする。皆真剣だがドタバタ劇が進む。

 ――「まあ、仕方のないことで、人間は死ぬものであって、彼が言っていたとおり、突然に死ぬ運命にあるものなのだから……」

 劇場であきらかに魔術師たちは神がかった様子になる。彼らは自由に金を生み、品物を生みだすことができた。猫に首を切られた司会者はすぐにもとにもどされる。モスクワを荒らす悪魔たちとそれに巻き込まれる芸術関係者、さらに名前のない「巨匠」(Master)が加わる。この男の書いたポンティウス・ピラトについての小説と、作中で展開される磔刑の場面には関係があるのだろうか。

 こういう大筋はしっかりつくられているが大半はブルガーコフの気ままな思いつきで行が増えていく。

 第二部にはいるとマルガリータが登場する。この女は悪魔たちに連れられて悪魔の大舞踏会に参加する。ここに来る前にこの女は文学者アパートを粉々に粉砕している。かつて恋人だった巨匠の作品をつっぱねたことへの復讐だ。これを読んでいて大家をこらしめるために調味料とインキでアパートを荒らすという『プレクサス』の場面をおもいだした。

 一方、ピラトはヨシュア(イエス)の言葉に内心ではうなづいていたが、かれを処刑にした。これは最大の罪である臆病からやったことで、総督としての地位を失いたくなかったのだとピラトは自分を責める。内心と公務を弁別した立派な行いと考えることもできるだろうが彼は罪悪感にさいなまれて、部下の諜報部員アルタニアスにユダの暗殺を命じる。

 猫ベゲモートと警察のたたかい。

 巨匠の作品をキリストは読んだ。ヴォランド、コロヴィヨフ、アザゼッロ、ベゲモートたちは巨匠とマルガリータを連れて異世界に帰る。いちばんおもしろかったのはモスクワ市民が混乱におちいるところだった。ソ連にかぎらず人びとは悪魔たちのようなふざけた力によってもてあそばれる。

 悪魔が消えた後、人びとは犯人を追求しようと騒ぎたて、あわれな飼い猫をいじめる。

 ――猫は釈放され、飼い主に戻されたが、しかしほんとうのところ、猫は悲しみを知り、失敗とか中傷とかいうものがどういうことなのかを実践をとおして学んだのだった。

 「神よ、わが神よ! 夜の大地はなんと物悲しいのだろう。沼の上の靄はなんと神秘的なのだろう。この靄のさなかをまよい歩いた者、死を前にして多くの苦しみを味わった者、力に余る重荷を背負ってこの大地の上を飛んだ者なら、それを知っている。疲れきった者もそれを知っている。そして、それを知っている者は、大地の靄も、沼も、河も、惜しみなく捨て去り、自分に安らぎを与えてくれるものはこれしかないと知りつつ、心も軽く死の腕に身をゆだねるものなのだ」。

 

世界の文学〈4〉ザミャーチン,ブルガーコフ (1977年)