うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『A journal of the plague year』Daniel Defoe

 古い本のためか、ところどころ今と意味の異なる単語があるようだ。たとえばshyは、(感染者から)逃れたがるという意味で使われている。

 

 一六六五年、イギリスで発生した大規模なペスト禍の記録である。語り手はロンドン市内の商人であり、各教区parishでの死者が徐々に増加していく兆候から、ペストによる死者が市内にも発生する様子までが詳細に描かれる。当時の医学では解明できなかったためか、市内は大変な騒ぎになる。

 各教会は管轄区別に死者を数えていたが、年のはじめを境に埋葬の回数が増え、夏にさしかかると環境悪化のためにペストは激増、市民は恐慌にかられる。語り手の商人は、神に命運を委ね市内に残ることを決意する。

 市民、とくに労働階級はペストの恐怖から逃れるため、インチキ占い師や魔術師、偽薬を売る医者などに飛びつく。彼らペテン師たちにとっては、災厄はぜひつづいてほしいのだった。町から人の姿が消える一方、感染の及んでいない地域では人が道にあふれている。ただし、彼らはみな通りの中心を歩き、決して路地や家の近くにはいかない。家のなかに閉じ込められた感染者がいる可能性もあるからだ。

 ロンドン市長から、感染者が出た家を封鎖し、監視員をそこに置くことが告知された。召使も含めて感染者を出した家のものは強制的に軟禁されたが、監視員を殺して死ぬ前に脱走するものも多かった。

 死者数が爆発的に増加してからは、形式的な葬儀は中止され、死人車で死体を穴に運ぶ作業だけがおこなわれた。語り手はこの穴を見物に行ったが、これは建物一個分、深さ数十メートルにおよぶ巨大な墓穴で、ここに無造作に死体が投げ込まれていた。

 感染者のみならず、発狂するもの、感染したとわかって死ぬ前に人に撒き散らそうと出歩く者、死体からものを剥ぐものなど、悪党たちが続々と現れる。また、未熟な手術の最中に死ぬものもいた。曰く、「看護士は病人の死を早める手助けをしていた」、「貧民は感染しているにもかかわらず仕事に行き雇い主たちに被害をおよぼした」。

 ロンドンから逃れてきた貧民や、港に住んでいたものたちは、近郊に疎開しようとするが、住民たちはペストをおそれて受け入れないこともあった。こうして難民たちがキャンプをつくり、歩哨もたてて生活する光景が見られた。

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 ロンドンがペスト禍に見舞われている間、イギリスの通商は大打撃を受けていた。

 そもそもペストが運ばれてきたのはオランダの商船からだとされていたが、ロンドンでの大流行を受けて欧州各国はイギリス船にたいし港を封鎖する。特にスペインとイタリアは厳しく、イギリスの産品を降ろすことはおろか寄稿すらかなわなかった。

 スペインでは、イギリス船から商品を密輸したものが全員処刑されたという。一方、トルコは比較的寛容だった。

 実際には、港湾都市や停泊する船から感染者はほとんど出なかったのだが、この間にオランダとフラマン人(Fleming、フランダース地方に住むフラマン語ベルギー人)は狡猾にイギリスの市場を奪っていった。

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 年の暮れからペストは収束をはじめ、年明けにはおさまる。語り手は生き残った喜びを詩に託し、物語はおわる。

 特定の主人公といえるものはないが、紛れもない小説である。ペストに見舞われるロンドンそのものを描いた物語である。

 

 

Journal of a Plague Year