「競争」competitionを訳した福沢諭吉の挿話から、闘争・競争をめぐるヨーロッパ人と日本人との精神の違いを論じる。
文の端々から頑固オヤジ的気質がひしひしと感じられる。
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戦国時代とルネサンスをともに繁栄と闘争の時代ととらえ、競争の原理について述べている。ルネサンスは文化の花開いた時代である前に、まず凄惨な争いの時代だった。痩せた土地のうえで争う様相は、日本の戦国時代に類似するというのが著者の主張である。
戦国時代は武士のみならず農民も精力に満ちていた。恒常的間引きによる人口調節によって生きる屍となった江戸農民とはまったく異なり、秀吉のような成り上がりを生み出す活力があったと著者は考える。
白人は生存闘争が苛烈だったというよく引き合いに出される主張を用いているが、若干強引な印象はある。イギリス軍の残虐性、イタリア騎士の徹底的な冷酷さなどの例をあげて彼が警告するのは、日本人の半端な情である。
いまの日本人は徹底的な競争を知らぬと彼は考え、戦国武将をあげながら生存競争に敗れたものを並べていく。
ルネサンス史家の書いた武将列伝といった風で読みやすい。
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戦国大名、ルネサンスの領主、ともにたたかいは身内からはじまる。かれらは生まれたときから家族同士で殺しあう運命を背負っているのである。
彼らこそ機械の歯車である。
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千利休に絡めた芸術論はあまり共感できない(奢侈を称え、抑制を器が小さいことの証としている)が、美女についてのくだりはおもしろい。
――もちろん、貴人の美女といっても、薄暗い大奥で太陽を見ずに育てられた江戸時代の大名や大商人の家庭に見られる骨もあらわな畸形の病身をそこに想像してはならない。ベルツ博士があきれたような、ほとんど「女性としての肉体」を持たないような深窓の令嬢というのは、あのばかげた江戸時代が生み出した畸形の化物にすぎない。