うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『ロシア革命史』リチャード・パイプス

 旧体制時代からボリシェヴィキの台頭、そしてかれらがロシアを支配下に納めるまでを描く簡約史concise historyである。

 冒頭から彼は自分の主義を明確にする。即ち、一般民が求めるのは常に保守的・具体的なことがらであり、この不満は既存の体制でも大抵は実現可能なことである。この民衆の不満を、自らの理想主義のためのエネルギーに転化させ、新世界・新人類の創生を試みたのが、職業革命家とよばれる人間である。ロシア革命は、ユートピア思想がどこに向かうかをよくあらわしてくれる。また、結局人間は自分の利害に基づいて行動するのだということを、研究を通して学んだともいう。

 

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 第Ⅰ部 旧体制の苦悩

 帝国末期、ロシアは大量の官僚を抱える警察国家だった。君主の力は無制限だったが、地方はその地の官僚によって牛耳られていた。ロシアの農村は近代化を遂げた都市部とは完全に独立した社会を営んでいた。

 日露戦争により国家は崩壊の危機に直面した。前世紀からつづくアナーキストによるテロ活動によって、官僚や大臣の死者は数千名にも達していた。一九〇五年一月、冬宮に近づいた一一〇〇〇〇人のデモ隊と警察が衝突し、多数の死者を出した。このことは擾乱を招き、警保局の力では抑えきれなくなった。外省ウィッテは、自由化を進めるか、軍事独裁を行うかのどちらかしかないとニコライに進言した。

 十月詔書によって、ニコライ二世は議会を設立した。しかし、ニコライの専制君主としての権力は残されたため、この後も社会主義者やリベラルの不満が残ることになった。優れた政治家と評価されるストルイピンが首相につくと、議会を味方につけ改革をしようと試みた。ところが皇后から疎まれ、失脚したのち、エスエル党員に暗殺された。

 第一次世界大戦のさなか、ニコライが前線視察に出かけたあいだに、皇后とラスプーチンは忠誠心をもつものだけを部下にし、たびたび首をすげかえたため、保守派からも反発を買った。結果ラスプーチンは暗殺された。

 二月革命によって、臨時政府と執行委員会(イスパルコム)の二重権力の時代がはじまる。臨時政府には首相リヴォフのもと、傑出した二人の人物、すなわち法相ケレンスキーと外省ミリュコフがいた。ケレンスキーは執行委員会にも責を置く唯一の人物である。

 執行委員会の布告により、軍の将校は権力を剥奪された。下級将校のメンシェヴィキボリシェヴィキがその座に座ることによって「政府はその軍への統率力を失い、ソヴェトが国の真の主人となった」。陸相グチコフは、実質的な権力は臨時政府ではなく労兵ソヴェトにある、と電信のなかで言っている。

 やがてニコライは、あくまでも戦争遂行のために退位する。一方、ラジカルたちが第二次臨時政府をつくる。そしてレーニンが戻ってくる。

 レーニンの人物については詳しく描写されている。上流階級の生まれで、成績も優秀だったが、兄が反体制活動で処刑されたためレーニンも巻き添えをくらった。大学を放校された無為の時代に、レーニンは「彼をかくもひどく扱った国家と社会の破壊を決意した狂信的な革命家へと転身した」。

 彼の気質は憎悪であり、急進主義も個人的な怨念に基づいていた。彼は「平和とは戦いのための息つぎである」と漏らした。

 ――レーニンの残虐性は、臆病さと表裏一体であった。身体的に危険なときは、いつでも、彼は姿をくらました。たとえ、それが彼の部隊を見捨てることを意味するとしてもである。

 ボリシェヴィキはサンディカリストなどを味方につけながら支持を集めていく。ソヴェトに従属しない私的な赤衛隊を組織し、ドイツからの支援を秘密裏に受けて軍隊へ宣伝活動をおこなった。

 ドイツとの関係はその後もつづき、ボリシェヴィキ資金援助した。ドイツは連合軍を抜けたロシアを自国の傀儡政府に仕立て上げ、やがてドイツの植民地にする算段だった。これはやがて敗戦により失敗し、ブレスト=リトフスク条約も廃棄されることになる。

 陸相ケレンスキーは戦線を視察し、鼓舞することで民主主義を盛り上げボリシェヴィキを退けようとしたが、もはや軍隊に士気は残っていなかった。さらに、コルニーロフ将軍を欺き、彼に軍事独裁の野望があることを広めようとしたため、リベラル臨時政府は軍隊の支持までも失ってしまう。

 そのあいだレーニンらボリシェヴィキは武力による制圧を進めた。社会主義者インテリゲンツィアは革命という目的を共有する点から、彼らに対抗することができなかった。十月に、エスエルやメンシェヴィキが議会に立候補する権限をボリシェヴィキは奪う。また、秘密警察チェカに無制限の権限を与える。

 ギャングまがいの人間を集めたチェカーは、レーニンの指令に基づきニコライ皇帝一家を殺害する。イギリスやフランスの君主処刑と異なり、殺人は秘密裏に行われ、しかも必要なかったと著者は考える。

 その後、一九一八年を通して、赤色テロルとよばれる無差別の即時処刑が横行する。これにより五万から十三万の人間が死んだとされる。ボリシェヴィキはほぼ全ロシアから敵視され、特に農村では、その後の内戦をもしのぐ叛乱に見舞われていた。これらを服従させるには恐怖と暴力以外に途がなかったのである。

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 レーニンは極度の臆病のため、モスクワの宮殿からほとんど出ることがなかった。彼の周りには、反独志向の強い忠実なラトヴィア兵がついていた。また、レーニンは大ロシア人を軟弱だと考え、冷酷な処刑をおこなうためチェカーの頭領にポーランド人革命家ジェルジンスキーを据え、その配下にユダヤ人、ラトヴィア人、アルメニア人などを配した。

 戦時共産主義の失敗により、都市の食料の六、七割は闇市によって賄われる惨状となった。革命家のだれもが、会社の経営はおろか、一銭の金も稼いだことがなかったのだから、当然だった。

 ――……ソヴェト・ロシアで、少数派を成したのは、体制とその支持者たちであった。権力に留まるためには、彼らはまずはじめに、社会をアトム化し、ついで、そこで独立して行動しようとする意志そのものを破壊せねばならなかった。罪のない人の処刑に何らの良心の呵責を感じない体制のもとでは、罪を犯していないということは、生き残る保障とはならないことを、赤色テロルは住民に思い知らせた。唯一の望みは、何が起ころうと宿命論的に受け入れるとともに、自己をまったく消し去ることにあった。

 レーニンとトロツキーはさらに、恒常的な強制収容所を発明したが、これはのちスターリンによって巨大化され、ヒトラーにもヒントを与えることになる。

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 内戦がはじまると、コルチャーク提督、デニーキン将軍、コルニーロフ将軍、チェコスロヴァキア軍団、それに農民パルチザンアナーキストが入り乱れて赤軍とたたかった。赤軍は人口周密地域や工業地域を占めていたので、戦況は有利に運ばれた。

 白軍はイギリスから援助を受け、第一次大戦の継続であるという認識によって士気を保っていたが、コルチャークが敗死してから支援を打ち切られたため、支えを失ってしまう。

 一方、ウクライナでは白軍やその傘下のコサック、赤軍らによって大規模なポグロムがおこなわれ、十万人以上のユダヤ人が殺害された。ロシアが無秩序化してから反ユダヤ主義は高まっていた。さらに、トロツキーをはじめとしてボリシェヴィキは多数のユダヤ人を含んでいたため、共産主義ユダヤ人が同一視される傾向があった。

 これはドイツにも影響を与え、ホロコーストにつながる。

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 ボリシェヴィキは、マルクス主義にとらわれていたために民族問題を考慮しなかった。ロシア帝国の全人口のうち大ロシア人は約半分に過ぎず、残りがウクライナ人、ポーランド人、ユダヤ人、それに十パーセントをしめるムスリムがいた。

 臨時政府が樹立されたとき、ボリシェヴィキの意図に反してほとんどの周辺諸国が独立を宣言した。フィンランドポーランドバルト三国をはじめ、グルジア、ザカフカース連邦などが次々と独立したが、のちに赤軍によって征服されることになる。

 ハンガリーでは共産主義者ベラ・クンが統治を試みるが、反共主義者ホルティ提督に追い出される。ワイマール共和国での工作活動も、リープクネヒト、ローゼンベルクらが殺害されたことで頓挫する。

 ――ヨーロッパの労働者と農民は、ロシアの同類とは大いに異なっていることが明らかとなった。……彼らは共産主義に不信をもち、過激な民族主義者の手で踊った。

 一九二〇年、ポーランドソ連は戦争に突入する。

 一方、ソ連は海外にむけた情報戦略を開始した。国営のタス通信者を用いて、体制に従順な記者にのみ記事を提供し、もてなした。また、同伴旅行作家とよばれる作家たちにソ連賛美の文章を書かせた。

 不思議なことに、共産主義の大敵である実業家たちが、ソ連を未開拓の地とみて積極的に通商を望んだ。イギリスもロイド=ジョージのもとで通商をおこなった。ドイツなどの反動主義者たちも、地政学の観点からソ連と友好関係をもった。

 ワイマルのゼークト将軍は軍備のためにソ連と秘密軍事協定を結ぶが、これはのちの大戦に大きな影響を及ぼすことになる。

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 晩年のレーニンは現実と理想の乖離に悩まされた。ポーランドに敗北したため屈辱的な講和を結ばされ、病気で一線を退いてからはスターリンカーメネフジノヴィエフらに疎外されていると感じた。

 スターリンは出世主義によってレーニンに気に入られ、政治局、組織局、書記局すべての局においてポストを手に入れた。レーニンの死の直前、彼とスターリンは不和に陥り、レーニンはスターリンを批判する論文を党大会で読もうとした。ところがスターリンは党大会を延期し、レーニンは演壇に立つことなく死亡する。トロツキーは追放され、やがてメキシコでスターリンの手下によって暗殺される。

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 リチャード・パイプスはボリシェヴィキを狂信者と断定し、ソ連は失敗そのものだったと論じる。また、彼が強調するのはツァーリズムとの連続性である。専制の形式(警察力、軍事力)がそのまま引き継がれている点が最大の特徴である。
ロシア革命は民衆の革命などではなく、またボリシェヴィキたちの目標も権力の保持にすぎなかった。

 パイプスはレーガン政権時代にCIAで働いた経験があり、アメリカにおける対ソ政策にも影響を与えた。

 

ロシア革命史

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