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『スターリニズム』グレイム・ギル

 本書はスターリニズムを実証的に分析する。冷戦が終わることによって、より政治的意図や影響を離れた研究が可能になった。

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 スターリニズムの起源については、ロシアの後進性、政治文化、レーニン時代の政策、スターリン個人の特性などさまざまな要因が考えられるが、いずれも決定的ではないと警告する。安易に原因と結果を結びつけることは適切な分析とはいえないからだ。

 ちなみに、レーニンの新経済政策(NEP)のときすでに資本主義が導入されていた。この矛盾に伴う求心力の低下に対処するために、党の強い支配が必要とされたというのが、スターリニズムの起源をレーニン時代に求める説である。

 スターリン個人をスターリニズムの源泉とする考えは広く普及している。確かに彼は冷静、冷酷で、政治闘争に長けており、また党内の人事を握っていた。それでも、レーニンの死の直後はいまだ統治機構が整備されておらず、地方の党指導者は領主のように好き放題の生活をすることができた。スターリンはこれら下級指導者の心をつかむために尽力したが、これが彼の政敵と異なる点である。

 「党の統一について」という、党内の異論を非合法とする決議も、すぐに効力を発揮したわけではない。

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 比較的自由を保っていたNEP期から、スターリンの五カ年計画への移行は急激なもので、社会、経済、文化、政治の領域すべてが管理されることになった。集団農場(コルホーズ)や囚人労働、工業化、移動の制限など、計画経済の基礎はこのとき築かれた。農民反乱などがおこったものの、ロシア国民は新世界建設の情熱に燃えていた。ここでは模範的鉱夫スタハーノフなどのキャンペーンが用いられた。

 このとき社会階層の流動もおこり、三十年代末までには農民や労働者出身のエリートが多数を占めることになる。彼らはみなソ連教育を受けた者だった。

 一九三六年から一九三八年にかけて大粛清the great terrorがおこなわれた。自己の権力基盤に関して不安を抱いたスターリンは、政敵キーロフらを排除しようと考えた。また、NKVD(内務人民委員部)は粛清を続けることで自分たちの存在を正当化しようと試みた。スターリンは政治警察を操り、あらゆる組織の指導者や潜在的な反乱分子を逮捕、銃殺していった。党、軍のみならず政治警察もまた粛清の対象とされ、ソ連は甚大な被害をこうむった。

 ――……一つの要因となったのは、目標達成のメンタリティーであった。政治警察の全機関は、絶えず増加する逮捕者の目標数を達成しなければならなかった。目標を達成できなければ、自分が敵の疑いをかけられた……多くの人々はNKVDに協力することで、自分と家族には寛大な措置を引き出そうと望み、進んで他人を告発した。こうして犠牲者の輪は広がった。人々が個人的な恨みを晴らすためにテロルを利用するという末端での動きも、テロルの範囲をさらに広げるうえで重要であったかもしれない。

 大粛清を通じて個人独裁とテロルの制度化が確立された。

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 世界大戦は開戦初期こそ手痛い敗北をこうむったが(主な理由は赤軍粛清による戦力低下だった)、戦争遂行に必須な計画経済の移行はスムーズであり、最終的には勝利を収めた。スターリン率いる国家防衛委員会(GKO)がすべてを統括した。スターリンの威光はさらに磨かれ、彼の肖像がイヴァン雷帝やピョートル大帝らロシアの英雄に並んだ。

 戦後、スターリンは自分の仕事を多少減らしたが、これは彼の権力が弱まったことを意味しない。彼の統治のあいだ粛清はつづけられた。その後フルシチョフ、ブレジネフのあいだも、スターリニズムの独裁という点は継続された。

 なお、筆者は全体主義という用語に疑問を投げている。スターリニズムが最盛期を迎えたときでさえ、中央が下級指導者の行動すべてを管理することはできなかった。これは地理的、技術的な問題から、完全な中央集権化が不可能だったためである。ソ連時代に一貫して地方はある程度の分権を保っていたという。

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 政治、経済、社会、文化、四つの観点からスターリニズムを分析しているが、文化については有名な社会主義リアリズムが触れられている。

 

スターリニズム (ヨーロッパ史入門)

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