うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『What is history?』Edward Hallett Carr

 歴史とはなにか? この質問に答えるのは難しい。

 十九世紀、ドイツを中心とした歴史学は事実至上主義を唱えていた。事実を集めればおのずと真なる歴史が浮かび上がるのだと彼らは考えたが、第一次大戦前後、クローチェらの歴史哲学の提言により新しい潮流が生まれる。

 歴史家は事実を選択し、一定の理念にしたがって歴史をつくりあげている。歴史は歴史家の脳から自立したものではない。だからこそ歴史についての哲学を考える必要があったのだ。

 歴史家の手を経て、事実は歴史的事実となる。Oakeshott曰く、「歴史とは歴史家の経験である」。

 カーは歴史を以下のように定義する……「歴史とは、歴史家と事実との相互交流のおわりなき過程であり、また現在と過去とのおわりなき対話である」。

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 社会と個人はどちらが先に生まれるのか? これは鶏と卵の類の問題だ。例えば十九世紀歴史学においては、個人とはルネサンスに誕生したのだとされる。抑圧的社会に対抗して個人主義が生まれたというのがその説明だが、しかし「われわれは、闘争は抽象的理念のあいだでおこるものではない、ということを忘れがちである」。あくまで闘争は個人と個人のあいだでおこったのであり、社会の外に立つ個人という観念は誤りである。

 

 歴史のなかの人びとの行動は、社会から隔絶していない。彼らは当時の社会に深く影響されていたのだ。individual, 個性、個人性と社会性とを計りにかけなければならない。歴史家は、また歴史的事実は、どの程度個人的産物であり、またどの程度社会的産物なのだろうか?

 

 歴史家は彼をとりまく時代状況を歴史に投影する。偉大なるギボンもモムゼンも然り。また彼はマイネッケなど著名な歴史家の例をあげ、20世紀初頭の激変にあわせてその歴史観が変貌していくさまを述べる。

 カーは、歴史書を読む場合はまずその刊行年と時代をよく調べよ、とアドバイスする。

 歴史家と同様、歴史自体もまた個人と社会の相互交流によって成り立つ。古代ギリシアの英雄賛美や、「悪いのはぜんぶ失地王ジョン/ヒトラー/ヴィルヘルム二世のせい」というような視点は、現在では子供じみて見える。

 際立ったように見える個人もまた、彼の属する組織や、彼をとりまく社会の影響を離れてはいないのである。

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 仮説を基づいて事実を検証するという点で、歴史学は科学と共通するものをもっている。科学者も歴史学者も、事実とはなにかについて議論をおこなっている。科学者によれば科学的事実とは「専門家によって公的に認められた定義」だというが、これは歴史学にもいえることである。

 科学が普遍性を求めるのにたいし、歴史学は固有性を求める。歴史学において安易に類似(アナロジー)を求めることは誤りに結びつきやすい。また、科学は原則をたてることで未来を予測できる。歴史は、おおまかな予測はできるが具体的にいつ、とか、誰が、などということの予言はできない。

 歴史において、運命論や終末論といった宗教的事項は排除しなければならない。同様に、歴史と関連の薄い人物個人の人格などを指して非難するのも歴史の仕事ではない。

 歴史と倫理の問題は実に難しい。歴史を道徳教材にするために事実をゆがめるのはもちろん間違っている。歴史家は過去の審判者となるべきだという声もあるが、その歴史家自体現在を背負っており、倫理そのものも歴史によってつくられている。

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 歴史研究の方法が発達するにつれて、歴史的事件の原因の選択肢も格段に増えた。科学と同じく、発展は普遍化を促進する一方、細分化・分裂をすすめるという矛盾した面をもつ。

 ある歴史的事件の原因を特定することこそ、歴史家を歴史家たらしめるものである。ギボンはローマの衰亡を野蛮と宗教の勝利と考え、一九世紀英国の歴史家は帝国の繁栄を政治制度の発達に帰した。

 ここでカーは、決定論と偶然論(?)を扱う。ヘーゲルマルクスがあらわれて以降、歴史学は長く決定論、歴史的必然性の概念にとらわれていた。これは歴史主義とも呼ばれ、戦後、ポパーやバーリンら自由主義者によって批判される。

 われわれはふつう目的をもって行動する。因果も、目的があるからこそ分析される。教訓にも理論化にも貢献しない偶然は、極力排除される。とはいえ、原因を究明することには必ず価値判断がついてまわる。教訓として生かすことができ、歴史全体のなかで一般化できる原因をわれわれは求める。

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 進歩の概念は十九世紀イギリスで頂点に達したが、カーは進歩を肯定も否定もしない。ある文明や国家の没落は他の進歩を意味する。進歩にはこれまた歴史家の主観が含まれるが、同時に進歩の観念のまったくない社会は亡ぶだろうという。進歩思想にここまで頁を割くのは当時の時代状況のためだろうか。

 進歩や衰退にかかわらず、歴史学の視点は常に未来と過去を交錯させる。経済が台頭することで歴史家は過去の経済を見直し、政治が台頭することで過去の政治が見直される。歴史は常に更新され、多層的な視点を備えていく。

 「歴史家は事実と解釈との、事実と価値とのあいだで均衡をとるのであって、それらを分離することはできない」。

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 近代は、カー曰く、人間が自己と自己をとりまく環境に意識的になった時代だといわれる。ここでの自己とはすなわち理性(reason)をさす。アダム・スミスヘーゲルマルクスらは皆、理性の見えざる手や世界精神が人間たちの未来を無意識に導いていると考えた。

 われわれの時代(20世紀)は合理化の時代だとカーは考え、また人間が自己にたいして意識的になった時代であるとも考えた。

 これからの歴史家、歴史学徒の課題として、まず英語圏中心主義から脱することを強く主張している。

 それが進歩として捉えられようと、天命として捉えられようと、恐怖としてとらえられようと、世界は変化していく。そして歴史家も歴史学も変化していく。

 

What Is History?

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