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The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『政治的なものの概念』カール・シュミット

 政治的なものの概念を定義することからはじまる。

 民主主義体制においては「すべてこれまでは国家的な問題が、社会的なものとなり、逆に、すべてこれまでは「たんに」社会的な問題が、国家的なものとなる」。

 宗教、文化、教養、経済、これら中立的なものも国家と政治にたいして中立であることをやめる。社会のあらゆるものが国家と結びつき、ここで「全体国家」が登場する。このように国家と社会が浸透しあった状況においては、政治的なものを国家と同義としたり、国家に関連付けたりするだけでは不十分なのである。

 道徳的なものの根幹が善と悪、経済的なものの根幹が利害、美的なものの根幹が美醜であるように、政治的なものとは、究極的には「友と敵という区別である」。

 政治的なものを定める独立した概念なので、敵が経済的に利をもち、道徳的に善であり、美的に美であることもありうる。友敵を定めるのは当事者でしかない。

 友敵における敵とは「存在的に、他者・異質者であるということだけで足りる」。友敵概念を心理的な表現、個人的な感情の表現と混同してはならない。経済における競争相手とも異なる。

 重要なのは、「諸国民は、友敵の対立にしたがって結束する」ことであり、それが現実に存在し、国民にとって現実的可能性として与えられているということである。

 (政治的な)敵とは、現実的可能性として、抗争している人間の総体である。よってすべての敵は公的であって私的な仇ではない。

 あらゆる国家は友敵を区別し、この友敵とかかわるすべてに「政治的なもの」を帯びさせる。よって政治的なものはすべて抗争的な意味をもつ。友敵概念は当事者にしか定められないので主観的である。政治的決定が党派的といわれるのはこの主観性のためである。

 国家はふつうみずからの外に敵を定めるが、この友敵が国家内で結晶化したときには、内乱となる。敵という概念には闘争の可能性が秘められている。政治的なものにおける闘争とは物理的殺戮のことである。戦争は「組織された政治単位間の武装闘争」であり、内乱は「組織化された単位内部の武装闘争である」。敵、つまり他者・異質者の存在否定の極端なかたちが戦争なのである。

 中立という概念もまた友敵区別を前提においている。友敵とは闘争にいたる現実可能性を指し示す。よってたいていの戦争は偶発的なのだ。この偶発の可能性があるために、人間生活は常に政治的緊張を有するのである。

 ――例外的事態こそが、とくに決定的な、ことの核心を明らかにする意義をもつ……なぜなら、現実の闘争においてこそ、友敵という政治的結束の究極的帰結が露呈するからである。

 政治的なもののみが戦争を招来するのであり、他のいかなるものもそれだけでは戦争を招来しない。宗教が戦争を招来するようにみえるのは宗教が既に政治的なものを帯びているからだ。具体例をあげると、戦争をおわらせる戦争、平和のための戦争とは、道徳が政治性を帯びた例であり、相手を道徳的にも抹殺しようとするために特に非人道的となる。

 政治的な結束のみが政治的単位であり、主権をもつ単位である。つまり決定的事態(戦争)の決定権をもつ単位である。この定義にあてはまるならば経済団体も宗教団体も政治的単位となりうる。

 ところで、決定権をもつ政治的単位たる国家は、国内を平和・正常の状態に保つことを義務とする。そのためには国家は内敵をももつ。この内敵の出方によっては内乱がやってくる。これは立憲国家においてもあてはまる。憲法が侵害される、つまり内敵と定められたものたちが憲法を侵害しようと蜂起した場合、解決は憲法の外で(つまり武力によって)おこなわれるからである。

 政治的単位は自らの友敵を定めなければならない。その点で国民には政治的意味がある。国民が誰が敵なのかもわからず、第三者に友敵の区別を任せ、それにしたがって敵と戦わされるというのは、その政治的単位がもはや政治性をもたず、上位の政治的単位に隷従していることを意味する。

 ――一国民が、政治的なものの領域に踏みとどまる力ないしは意志を失うことによって、政治的なものが、この世から消えうせるわけではない。ただ、いくじのない一国民が消えうせるだけにすぎないのである。

 

 武装解除し、敵を認めないと宣言することは、政治的単位ではなくなるということである。彼らを保護するのは他の政治的単位であり、もはや政治的単位ではない彼ら非武装者たちは保護者の友敵区分にしたがって生命を捧げなければならない。

 

 武装解除および国際連盟への批判は、当時のワイマル共和国の状況を念頭に書かれたものだろう。国際連盟(League of Nations)は、国家の同盟にすぎない。普遍的な組織にそもそも国家などという政治的単位があるはずがない。国際連盟は連合での戦争を促し、特定の場合の戦争への歯止めを緩めるだけだろう。

 

 教育学者は人間を可塑的なものととらえ、神学者は人間を罪深いものととらえる。政治概念はこの点で性悪説をとる。政治理論者はあらゆるものを「ただ、具体的に闘争する人びとの政治的手段として、つねに認識することができる」。

 ホッブズは、法の至上性とは法を司るものの至上性を意味するにすぎないといった。平和や人類、秩序といった文言はそれを旗印に殺戮するものの実在によって現時点でも道具にすぎぬことが実証されている。

 没落は友敵の区別を放棄するところからはじまる。かれらは性善説になびき、彼らが善であり有徳者であると信じ込んだものによって殺される。

 

 最後は自由主義の性質についての議論がつづく。民主主義とは国民全員を政治的なものに結び付けようとする点で本来自由主義とは対極にある。個人主義自由主義は政治的なものを否定するので政治理論にはなり得ない。これは政治の放棄と変わらない、よって政治的単位に敗北する。

 十九世紀の自由主義は以下のような構図をとった……独裁対議会、国家・戦争・政治対経済・産業・技術、封建主義・反動・暴力対自由・進歩・理性。

 結果、「経済が政治的なものとなり、それゆえに「運命的」となるという事態が生じたのである」。真に非政治的となったのは用語だけだとシュミットはいう。以上の自由主義批判も当時の情勢を鑑みてのことだろう。

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 政治的なものとは友敵の区別である。敵とは他者・異質者であるということであり、最終的に敵の殺戮にいたる可能性がある場合、それは政治的なのである。この友敵の取り決めをするもの、そして決定に従い人びとの生殺与奪を握るものが政治的単位である。

 彼の政治的なものにかんする定義はこれだけである。

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 シュミットは「汝の敵を愛せ」の敵を私的な敵と考え、政治的な敵は憎む必要も愛する必要もないと解釈する。彼はこのことばを私的な仇を愛すべきであるとする。一方佐藤優は「汝の敵を愛せ」の敵を政治的な敵にまで広げる。というより、私的な敵を政治的な敵と同じようにとらえよと解釈する。私的な敵を友敵の概念にあてはめることにより、判断力を鈍らせる愛憎を排除しようと試みている。この思考方法は、私的な敵がそのまま公的な敵となる外交官としての経験から得たのだろう。外交官であるとはとはつまり国家をからだに宿すことだからである。

 

 クラウゼヴィッツのことば「戦争とは、他の手段を介入させての政治的交渉の継続にほかならない」はまだ不十分である。

 戦争とは友敵結束の最後の切り札、極端な形なのである。戦争は独自の文法(戦略・戦術)をもちはするが、頭脳はいぜんとして政治(友敵概念)である。

 シュミットによれば多元主義(おそらくPluralism)は決定権をもつ政治的単位を無視している点で不正確である。さまざまな社会の連合がいくらあろうとも、決定的事態を司る政治的単位は存在するはずだ。ないとしたらその団体の集合はもはや政治とは関係がない。

 ベンの芸術対政治のとらえかたと友敵概念の噛み合い……ベンは芸術を、究極的には政治に還元されないものと考えた。シュミットによればこれは自由主義的な思考の方法である。芸術の独立性を説いた例の論文がもとでベンは迫害された。ゲーテは「芸術が党派の宣伝となったときそれはただの宣伝広告となる」と言った。彼らのいう芸術とは政治的に無色透明でなければならない。

 あらゆるものが政治に回帰する民主主義最終形態=ファシズムのなかにいたからこそ、彼は芸術に希望を託したのだろう。

 芸術の世界で武装解除と脱政治宣言をおこなったものたちが、おそらく唯美主義者である。彼らがたどった道はどこかからやってきた政治への無条件降伏だった。

 戦争を根絶させるための戦争は、まさに『追憶のための追憶』にあるミラーの黙示録的な光景を展開するだろう。

 ヘーゲルの「量から質への変化」とは、増大した社会単位が政治的なものを帯び始めることを意味するとシュミットはいう。経済が政治性を帯びた例のひとつが十九世紀の帝国主義である。

 

政治的なものの概念

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