うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『文化帝国主義』ジョン・トムリンソン

 感情的な文章から本書ははじまる。曰く、テレビは異文化を侵略している、土着文化は支配されている、帝国主義の一形態である云々。この文化帝国主義とは何かを考えるのがこの本の趣旨である。

 文化帝国主義批判につきまとううさんくささは、批判するものの立場、それに言葉のあいまいさから生まれている。

 ――「文化帝国主義」とは、(支配的な)西洋文化の立場からその自立性が保護されているような文化を代弁する、ひとつの批判的言説である。

 また「文化」「帝国主義」がともに多義的なことばであるため、精確に定義をするのが難しい。倫理道徳の問題にかかわるため、客観性を見出すのも困難である。われわれは文化帝国主義の全体像を把握しようと考えてはならない。個別の用いられかたを見ていくしか方法はない。

 

 文化帝国主義には大きく分けて四つの用法がある。まずメディア帝国主義、つぎに国家の言説としての文化帝国主義、つぎにグローバルな資本主義にたいしての文化帝国主義、さいごに近代性批判としての文化帝国主義である。

 文化帝国主義を論じる者自体が特権的立場にいることについて、著者は「二重の意識を持て」と説く。現在の地位はあくまで無限大の偶然の結果でしかなく、われわれと、第三世界の人間たちになんら異なるところはないのだと。

 以下、文化帝国主義といわれる現象をメディアから国家、資本主義、近代性へと、より大きな枠組のなかで考えていく。

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 Ⅱ メディア帝国主義

 世界システム論や、「核―周辺」モデル、「従属論」などはネオ・マルクス主義の領域だという。メディア帝国主義に出てくる当事者は多国籍企業、多国間企業である。批判は主に彼らが敷くメディアの制度にむけられる。

 メディア帝国主義論者シラーの主張は、近代世界システム、とくに合衆国のイデオロギー生産装置としてメディアが使われているというものである。メディアは資本主義にふさわしい消費者を供給する役割を果たす。

 制度、システムといったマクロの視点から分析する論者がいる一方、ドルフマンの『ドナルド・ダックを読む』のように、ある商品や文化を直接解釈しそこにイデオロギーを見出す批評もある。このマクロ、ミクロの分析双方に欠けているのは受容者の研究である。

 帝国主義を見出す批評も、単純におもしろいとおもう視聴者も、すべて受容の多層性を示すものである。メディアはある文化を伝える媒介となるが、その受けてもまた自分たちの文化を通して解釈するのである。たとえばアラブ人とユダヤ人ではドラマ『ダラス』の見方がまったく異なることが判明している。

 受容の分析は困難である。チャップリンの映画で笑う遊牧民という図に、普遍的な笑いの存在を見出すことができるのだろうか? 「普遍性」「共通の人間性」を強調しすぎるのは適切ではない。チャップリンが受け入れられているのは、第一に彼の作品が圧倒的に普及しているからである。

 ――特殊なものを普遍的なものとして表現することは、宗教における福音伝道や不況にもそういう例が見られるように、ごく一般的なイデオロギー上の戦術である。

 各種の神話は人間の普遍性を訴える一方、歴史上の抑圧関係を無視する。アメリカの文化がそもそも異民族たちの共通の人間性に訴えるものだとしたら、そもそも文化帝国主義などないということになる。

 現実の文化とおもわれているものもメディアによって醸成されたものであったり、逆に現実を反映した仮想がメディアを通して普及することもある。フローヴェールの『ボヴァリー夫人』の恋愛感情は、騎士道小説によって養われたものである。ドン・キホーテもまた然り。

 

 Ⅲ 文化帝国主義と国家の言説

 国民国家がその文化をもっているのではなく、より細かい民族、人種、階級がそれぞれ文化をもっているのである。ユネスコはこれら多元的な文化の根底には普遍性があるとして、異質なものを認めよと主張する。これは文化の価値に根拠がないこと(すべて無意味ならすべてよし)を示しているのだろうか。

 国民国家ということばは精確ではない。文化帝国主義批評の槍玉にあがっているアメリカでさえ、メディアとして海外に進出するのはWASPの文化である。イギリスにおける北アイルランド、スペインにおける各州のごとく軍隊が統一の象徴となっている国。

 つづいて「想像の共同体」説とアンソニー・ギデンスのナショナリズム論に言及する。ギデンスによれば、国家アイデンティティは経済活動に基盤をおく枯渇した日常生活の隙間を埋めるものだという。血縁と地縁の消失した社会では、人間は私的・性的関係を深める一方、大衆的行動に精を出す。これが合理的・世俗的な国家がときに激しいナショナリズムを起こす理由である。労働者の生活に、国家への帰属に思いをはせるような場面はほとんどない。

 これら想像の共同体や国民文化といったものが近代の一部である。よってこの言説を「近代性そのものの文化の広がりとしての文化帝国主義」というより大きい枠組に含めることができる。前章の多国籍企業資本主義の文化支配も同様に含まれる。

 ホブズボーム曰く、伝統それ自体が国民国家建設時の創出品である。では文化の帝国主義とは存在しないのだろうか? そうではなく、「文化の「自律性」――大まかに言うと文化が自らの方針に沿って発展していく権利――が外部の力によって脅かされているような場所では支配が現実に存在する」と著者は考える。とはいえ、世界中がレストランをピザ・ハット化するのも自律性による自由な選択といえる。尊重されている文化の多様性も、観光客の思想かもしれない。

 

 Ⅳ 資本主義の文化

 文化帝国主義が資本主義の前衛の役割を務めるという機能主義的な議論には欠陥がある。資本主義を批判するものはえてして、生活水準の向上を求める一方で、その実現たる商品の普及には反対する。

 コーラやケンタッキーの普及を批判することは、第三世界の人間は非合理的で広告宣伝に弱く、自分たちの適切な欲求を把握できていないと断定することと同じである。こうした世話焼きの思想を父権主義的というようだ。

 ――まるで第三世界には、インスタント商品の文化からの誘惑に抵抗する特別な必要、さらには特別な責任までもがあると言わんばかりである。

 消費主義にたいする批判はいくつかのカテゴリに分けられる。情報の欠如を指摘することはできるが(痩せたいのに脂肪をとる)、他人のニーズを批判し自分のそれを押しつける態度には問題がある(好きで酒を飲む人間を批判するのはむずかしい)。

 資本主義の特徴は経済と文化双方に影響すること、消費を中心とすることである。資本主義を批判するにはまずなぜそれが正しくないのかの根拠を定めなければならない。

 

 Ⅴ 近代性、発展、そして文化の運命

 行き着くところはやはり近代論らしい。すべての人間は近代化に向かう。バーマンによれば第三世界の政府は経済発展にともなう文化の変質を受け入れなくてはならない。

 バーマン、ピーター・バーガー曰く、近代性はあらゆる文化を規定概念から選択へと移行させる。文化を不安定にする。

 

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 ロラン・バルト、アリエル・ドルフマン。ギデンス、ホブズボーム。

 最後の方は流し読みになってしまったが、文化帝国主義の言説が結局のところ近代についての言説にたどりつくことはわかった。また、文化とは人間の意志によって動くものである。マルクスの亡霊の存在に気づくには、マルクスを知らなければならない。考えている以上にマルクスの影響下にあることばは多い。

 

文化帝国主義

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