うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『朝の影のなかに』ホイジンガ

 ナチスが台頭するなかで書かれた、現代ヨーロッパの病理についての診断書である。内容は、古典主義者ホイジンガの説教・講釈といえよう。キリスト教にやや重きを置きすぎている傾向はあるが信徒としてはごく普通の態度である。また、彼の強調するとおりキリスト教に強い倫理規範、道徳哲学としての力があるのは確かなのだ。

 当時の世相を批判するくだりはどういうわけか現代日本にも通用する。これはわれわれの社会が危険な兆候を示しているのか、それとも先進国とは結局似たような傾向を帯びるのだろうか。

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 彼によれば、様々な領域における伝統の崩壊、過去の崩壊が見られる。これはニーチェ、ユンガー、ベンなども同じテーマについて論じている。確固たる精神の支柱が失われ、ニヒリズム虚無主義への扉がひらかれたことはこの時代共通の危機だったのだろう。

 文化、知性、判断力、あらゆる側面において退行が見られるとホイジンガは考える。以下、病理が列挙される。

 文化の条件は二つある。精神的価値と物質的価値の均衡がひとつ、さらに文化は理想を志向していなければならない。さらに基礎的要件として、文化は自然と人間自身を支配しなければならない。しかるに現代世界が重視するのは物質的価値のみである。

 文化はむしろ人びとの判断力を弱めることに貢献しているようにおもわれる。

 「一般国民教育と情報宣伝の組織、これがそのまま文化の水準を高める方向には機能せず、逆に、その機能するところ、退廃と衰弱を示す現実を生み出している」。

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 彼の批判のなかでとくに念頭に置かれているのはナチスである。優生学についての彼のジョーク……「ユダヤ人とドイツ人とは、きわめて重要なふたつの文化要素、哲学と音楽になみはずれた才能をみせている。このことは、セム人とゲルマン人との等質性をつよく示すものと考えられなければならない」。

 ――文化をめぐる議論に登場する人種理論は、つねに自己讃美である。いったい、自分じしんの属する人種を卑小低劣な人種と呼ばざるをえないと知って、おどろき、かつ恥じ入った人種理論家などというものがかつていたろうか。

 人種理論、感情に基づいたえせ科学には常に「反」の形容がついてまわる。生理的な理由でほかの人種や人間を貶すことが正当化されているが、本来このような動物的反応は隠すべきものとされてきたはずである。「現代政治が動物学的基盤の上に立っている」という当時の批判はいまでも、いや普遍的な力をもつ。

 分析に飽きた学問は綜合をはじめる。すると「おもいつきが高い値段をつけられるように」なる。

 ――大衆向けの本の著者たちが、心理分析の用語を使って世界と人間とについて説をたれ、シンボルとかコンプレックスとか、幼児心理の発展段階とかをいいたててはなにがしかの結論をひきだし、重大きわまる理論を組み立てて、それでことたれりとする、このあわれむべくもなげかわしいおしゃべりに、いったいおどろきの想いをいだいたことのない人がはたしているだろうか。

 知性と認識は生の下に置かれる。すべては生存のために奉仕されるようになったのだ。行動的な生の原理がもてはやされ、フライエンフェルスはこういう、「われわれの精神の本質は、純粋な知的認識にあるのではない、生命維持の手段としての、その生物学的機能にあるのだ」。

 安楽と安全への欲求、生そのものの賛美、この原因をホイジンガは現代の物質的幸福に見出している。生が以前のように過酷であきらめをともなうものでなくなり、生きるしあわせを素直に受けとることができなくなってしまったというのだ。

 ――奇妙な時代ではある。かつて信仰と闘い、これを倒したと信じた理性が、いまは、わが身の破滅からのがれようと、信仰に避難所を求めなければならないのである。

 しかし、ほんとうに認識を否定するならばペンをもつかわりに「婚姻の床を、鋤を、制帽を」もてばよいのだ。

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 シュミットへの批判は彼の「友敵」理論に向けられる。兵士はただ命令にしたがって敵を殺す。国家もまた友敵関係にしたがい戦争をしかける。対立から善悪問題を、つまり倫理や道徳をすべてひきはなしてしまう友敵理論は「国家相互の関係から人間的悪の要素を捨象してしまうのである」。

 これもまた「生存とは闘争である」という事実を盾にあらゆる認識を捨てた思想のひとつである。認識を捨てるということは、生存闘争を抑止するあらゆる規範と倫理をも捨てることである。

 

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 当時の先端技術であったラジオを槍玉にあげ、書きことばの軽視が知性の衰退につながると嘆いている。ラジオにおけるリスナーとアナウンサーとの対話に愛着をもち、自らもインドで番組制作にかかわったオーウェルとは対称的である。

 カタルシスとは浄化のことをいい、ギリシア人は悲劇の余韻をこう表現した。

 「傲慢はうちくだかれる、悲劇が演じてみせてくれたように。生の激しい衝動は遠ざけられ、魂は平和へと導かれる」。

 真のカタルシスが人類におとずれるとすれば、それはミラーの最終戦争のようなかたちになるだろう。

 まじめとあそびについての議論は、別の著作で取り組まなければならない。

 

朝の影のなかに (中公文庫 D 4-2)

朝の影のなかに (中公文庫 D 4-2)