うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『The struggle for mastery in europe 1848-1918』A.J.P.Taylor メモ3

 「世界政策」の時代

 列強は本格的に海外進出に乗り出す。ホーエンローエ内閣の外相ビューローは、ドイツの「世界政策」への転換を示す象徴である。英、独、露は極東、とくに中国に注目する。

 一八九九年、イギリスはボーア戦争をはじめる。この際列強はみな反英的立場にまわる。フランスはエジプトおよびファショダで、ドイツは民族的観点からボーア人に同情的であり、またバグダッド鉄道敷設計画においてイギリスと対立していた。この鉄道は結局世界大戦のときも未完成だった。

 中国において一九〇〇年、義和団事件The boxer risingがおこると、ロシア、大臣を殺されたドイツが中心となり、各国は協力してこれを鎮圧する。ところが、極東において拡大政策をとっていたロシアは中国からひきあげずにとどまる。イギリスはこれを警戒したが、戦艦はアフリカ中心に配備されていたため行動に出ることができなかった。そこでイギリスはロシアと競合する日本の側につこうと考えた。ドイツは日露の争いにおいて中立を守り、漁夫の利を得ようと考えていた。

 ※義和団事件義和団につづいて清朝の実権保持者西太后dowager empressが各国に宣戦布告したことで連合軍の北京進入を招いた。

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 英仏同盟および三国同盟

 日露戦争において日本が善戦したことで、ロシアの弱体化が露見する。

 ペルシア、バグダッド、モロッコをめぐって、ドイツは各国と対立する。英国とドイツは海軍力を巡って対立する。これはドイツ軍人ティルピッツの大海軍建設計画に対して英国が警戒心を抱いたためである。

 オーストリアでは、参謀総長がベックに替わってコンラートに、外相がゴルチョウスキに替わってアーレンサルになる。二人はどちらも強硬派であり、ボスニアセルビアを併合し、またイタリアも併合しようという野心の持ち主だった。南スラブ問題(セルビア)のためオーストリアとロシアが軍事動員をはじめるときには、ドイツもオーストリアと共に総力を動員するつもりだった。

 モロッコ問題および南スラブ、ペルシア問題について調べる必要がある。

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 英独対立の時代

 ボスニア危機はヨーロッパに全体戦争の影を垣間見せた。一九〇九年、ドイツがイギリスに対し中立を要求すると、英国の反独感情は一気に増大する。一九一一年、フランス領だったモロッコにドイツ艦船が停泊することで、イギリスはドイツに対し反応する(アガディール事件)。これは一九〇五年モロッコ危機やボスニア危機よりも深刻な事態となった。一九一二年英独のあいだで海軍制限協定が締結されることで、この緊張は一時的にやわらいだ。

 

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 バルカン戦争とその後

 「外交方針はまっすぐ進むことがほとんどない」。

 バルカン半島オスマン帝国の領土であり、バルカン連盟を保っていたが、一九一二年十月、マケドニアを筆頭にブルガリアギリシャセルビアが一斉にオスマンに対し宣戦布告をする。列強はこの事態を予想しておらず、またトルコはどの国にも負けてしまった。

 オーストリアはバルカンがセルビアの手に落ちることを許さなかった。とはいえオーストリアセルビアを屈服させる力はなく、チェコスロヴァキアのトマシュ・マサリクの仲介でオーストリアセルビアは和解した。バルカン半島におけるナショナリズムハプスブルクの終わりを示していた。第一次バルカン戦争は墺露対立を招くかにおもわれたが、むしろ二国をひとつにした。オーストリアセルビアに反対し、ロシアはブルガリアに反対した。

 一九一二年のおわり、ロンドン会議で第一次バルカン戦争は終結し、バルカン諸国は列強の衛星国ではなく独立国となった。

 ところが対トルコ戦争でもっとも活躍したブルガリアは、ギリシアとセルビアも奪えると考え、一九一三年六月、警告なしに侵攻した。そこでルーマニアブルガリアにたいして参戦し、ドイツ人も戦争に反対した。彼らはオーストリアの問題にたいしまったく同調しなかった。このためオーストリアハンガリーの外交官ベルヒトルトは再びなにもしなかった。

 バルカンは完全に独立し、列強の利害に巻き込まれることがなくなった。オーストリアハンガリーを除いて、列強はバルカンの真空状態に満足した。

 ブルガリアのベルヒトルトは再びセルビア(領土侵犯をおこなった)に最後通告を送ったが、セルビアはすぐに撤退した。このことで列強の緊張は高まったが、まもなく英独はバグダッド鉄道の件で歩み寄りをみせた。続いて、ドイツの将軍リーマン・フォン・サンダースがオスマン帝国の陸軍元帥に就く。オスマン帝国は以前からドイツの軍事援助や、独仏の金融援助を受けていたが、ロシアはこのサンダース事件を黒海の危機と考えた。

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 欧州戦争の勃発

 サンダースによって独露関係は悪化したが、これが開戦前の空気を決定した。独墺はまだ協調性に欠けるところがあり、相変わらずハプスブルクの国内問題を軽視していた。オーストリアに対しセルビアルーマニアハンガリー領内のトランシルヴァニアルーマニア人を有するため)が敵対していたが、一九一四年の六月、ハンガリー首相ティッツァの構想をもとにベルヒトルトがメモランダムを公表した。ここにはブルガリアと同盟しセルビアルーマニアにあたる旨が書かれていた。

 六月十四日、サラエボ事件が起こるとオーストリアハンガリーの外交官ベルヒトルトはセルビアに対しての戦争を決意する。ベルヒトルトはハプスブルクの再興を目指したが、ティッツァはハンガリーだけを見ていた。オーストリアはドイツの承認を受けてセルビアに最後通告を送る。この時点では英国のグレイ外相は参戦にたいして躊躇していた。

 三国協商The Triple Ententeにとって参戦は自衛を意味した。ロシアは海峡の覇権を、フランスは自国の存亡がかかった協商をそれぞれ守ろうとした。英国はドイツの大陸における覇権を阻止しなければならなかった。

 戦争は「勢力均衡」によって引き起こされたのではなく、その崩壊によってひきおこされたというのが正しい。

 戦争原因について……欧州全体の戦争になったのは、ドイツの作戦計画(シュリーフェンプラン)によるところがまず大きい。また、ナポレオン後の時代には、戦争は革命勢力を生み出すものとして恐れられたが、WW1開戦当時には、戦争は国内の政治経済問題を解消するのではという推測が大勢を占めていた。また、バルカン戦争を見守った列強は、「決戦ですぐに戦争は終わる」という間違った結論を導き出したのだった。

 短期決着の見込みがはずれたことで双方は仲間を呼び込もうと外交をはじめる。

 

Struggle for Mastery in Europe 1848 1918 (Oxford History of Modern Europe)

Struggle for Mastery in Europe 1848 1918 (Oxford History of Modern Europe)