うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『The struggle for mastery in europe 1848-1918』A.J.P.Taylor メモ2

 フランスの孤立

 ルクセンブルクをめぐってフランスとプロイセンが対立する。ナポレオンはプロイセンとの対立を望まなかったが、世論はナポレオンがルクセンブルクを手に入れてくれるだろうと期待していたので、皇帝は矛を向けざるをえなくなった。フランスは英、墺などと協調しようと試みるがうまくいかなかった。

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 フランス時代のおわり

 ロシア、オーストリア、イギリスは普仏対立にたいして中立を維持した。ロシアは近東情勢(東方問題eastern questionとよばれる)を考えて、仏墺が結託しないよう望んだ。イギリスは孤立政策から大陸のことに無関心だった。オーストリアは形式だけルイ・ナポレオンに同調を示した。

 ビスマルクは南ドイツをまとめた統一ドイツの形成に集中していたが、彼が求めたのは民衆のナショナリズムによる統一でなく、ホーエンツォレルン家による統一だった。彼は下からでなく上からの統一を求め、これがロシアの利益にもつながるだろうと外交官ゴルチャコフに説いた。wikipediaによればゴルチャコフは帝政時代の傑出した外交官でありビスマルクの数少ない友人だったという。

 普仏戦争プロイセンの勝利でおわる。セダンの戦いでナポレオンが降伏すると、ティエール率いる臨時政府が続行するが、負けが込んで降伏し、ベルリン会議がおこなわれる。戦後、ロシアは神聖同盟の復活をもくろむが形式だけにおわる。フランスは強国の地位を失う。

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 東方危機

 戦後、ボスニアで蜂起が起こり、つづいてセルビアなどバルカン諸国がオスマンに対し宣戦布告する。列強は東方問題でふたたび駆け引きを開始し、ロシアはセルビア保護を理由にオスマンに宣戦布告する。これが一八七七年からはじまる露土戦争である。フランスはなにもせず、ディズレーリのイギリスも沈黙を守った。予想外にオスマン帝国が善戦し、プレヴナの要塞でロシア軍は釘付けにされてしまう。

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 ビスマルクの同盟

 露土戦争後、ビスマルク中心の講和がベルリンでおこなわれた。一八七八年以来、ヨーロッパは三十四年の平和を享受する。産業がヨーロッパ各国で発達し、イギリスを除いて自由貿易化がすすんだ。国境通過は容易になり、戦争がおこることなどありえないかにおもわれた。二月革命からの三十年とは違い、外交は以前ほど重要でなくなったかにおもわれた。

 以後、ビスマルクを中心に複雑な同盟関係がつくられる。彼は三帝同盟と秘密軍事同盟たる三国同盟(1882)をむすぶ。三帝同盟はドイツ、オーストリア、ロシアの協定であり、三国同盟はドイツ、オーストリア、イタリアの協定で、お互いに矛盾した目的をもっていた。三帝同盟はいちど解消されたものを1881年に再び締結したもので、墺露の協調に基づいていたが、三国同盟は墺露戦争のための準備だった。ビスマルクはこれら勢力均衡政策によって、列強が身動きの取れない状態になるようにした。

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 自由主義的同盟の決裂とその後

 フランスは弱体化しており、かつての栄光は過去のものになっていた。そのためフランスは植民地政策を推進した。イギリスは大陸の勢力均衡には不介入の方針をつらぬいた。イギリスは仏露という大陸の強国とは友好関係にあり、英仏はこれまでライバルというよりは盟友だった。ところがエジプト問題で友好関係はおわった。ナポレオンが征服し自ら失って以後、イギリスはエジプトの独立を維持していたが、そこにはフランスの資本が流入していた。

 1879年エジプトが破産するとフランスは資本の保護に乗り出した。スエズ運河の動向をめぐってイギリスが乗り出し、英仏は共同でエジプトの金融をコントロールすることになった。1882年になるとエジプト独立派が軍事行動をおこしたため、イギリスはエジプトに艦隊を派遣し占領した。フランスは国内の反対によって行動できなかった。フランスはエジプトを自国の管轄だと考える傾向にあったため、英仏両国の関係は険悪になった。

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 ブルガリア危機

 独露再保障条約など、ビスマルク主導の外交がつづく。各国において内政と外交は密接に関係しており、ときには内政が外交に優先することもある。議会や世論を考慮して戦争に陥ったのがルイ・ナポレオンである。

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 ロシアとフランスの協調

 ブーランジェは、普仏戦争時に軍司令官として活躍し、フレシネ内閣、ゴブレ内閣で国防大臣を務めた軍人である。彼は大衆的人気(ブーランジスム)を背景にプロイセンへの復讐を訴えたが、クーデターに失敗し亡命する(一八八九年)。

 ビスマルク退位以降、ドイツは孤立しつつあった。シュリーフェンは露仏の二正面作戦を計画し(シュリーフェン計画)、外交に影響を与えた。シュリーフェン計画はフランスをまず倒してからロシアに兵をむけるというものである。

 ビスマルクが退位し、勢力均衡の時代は新段階に入る。

 一八九一年、フランスとロシアは独欧伊の三国同盟に対抗して外交協定を結ぶ。翌年、軍事協定を結ぶ。三国同盟と露仏同盟が大陸においてむすばれたことで、イギリスがどちらにつくかが問題となった。一八九三年、タイにおいて英仏海軍が衝突をおこしたとの報告がはいる。すぐに誤報とわかったが、このときイギリスはドイツの援助を要請した(タイ危機)。ドイツはこの事件をきっかけに、英国は三国同盟側につくだろうという間違った仮定を抱くようになった。

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 失敗した大陸同盟

 1893年頃より、イギリスは孤立政策の時代に入る。ローズベリー内閣は、露仏同盟にたいして二つの選択肢しか持っていなかった。ドイツと同盟を結ぶか、それともひたすら自国の海軍力強化にのぞむかである。イギリスは後者を選び、成功した。英仏はエジプトをめぐって終わりのない対立に陥っていた。

 ロシアがフランス資本でシベリア鉄道を建設しようとしていた頃、極東では日本が大国として動きはじめていた。日本は中国を負かし、満州進出への一歩を踏み出したが、これはあきらかにロシアと衝突する運命にあった。

 一八九六年、イギリスとトランスバール共和国のあいだに紛争がおこる。このときドイツはトランスバールの大統領クルーガーに対して好意的な電報を送ってしまう(クルーガー電報)。ドイツにとってボーアは重要でなく、あくまで大陸の勢力均衡を変えるためにおこなったことだったが、イギリスにとってはそうではなかった。イギリスにとって南アフリカ喜望峰は世界政策のための最重要拠点だったので、この事件は英独の関係を悪化させた。

 一八九六年、イタリアはアドワの戦いにおいてエチオピア(アビシニア)軍に負かされる。イギリスはイタリアの無力さを再確認する。

 

Struggle for Mastery in Europe 1848 1918 (Oxford History of Modern Europe)

Struggle for Mastery in Europe 1848 1918 (Oxford History of Modern Europe)