うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『The problem of philosophy』Russell メモ2

 6 on induction

 inductionとは帰納である。雷が稲光の存在を導くように、存在Aは存在Bを示唆する。そうでなければわれわれは私的空間のなかに封じ込められるだろう。この知覚の拡大ははたして可能なのか、もしそうならばどういう効果があるのか。

 本質の統一性the uniformity of natureはあるのだろうか。つまり、すべてのことがらは例外なき普遍法則にもとづいているのだろうか。科学を用いれば、例外のある法則は例外なき法則におきかえられなければならない。

 ※the solar systemを太陽光発電だとおもっていた。

 物理法則はあしたも維持されているのか、重力はあしたも維持されているだろうか、こうした例をあげて、命題をより抽象化すると、「帰納は可能か」となる。

 この命題において確実性certaintyにたっすることは不可能である。われわれが得られるのは蓋然性probabilityである。

 科学においても同様である。経験と反復にもとづく蓋然性、確率をみちびく帰納が、科学の基礎である。帰納は経験にもとづく。

 7 On our knowledge of general principles

 推測の原理principles of inferenceの重要性と、それが提起する問題について。われわれの簡単な推測も、論理の法則に基づいている。排中律などもふくむ論理法則にもとづいてわれわれの思考は動いている。しかしこの論理にも矛盾があり、これが歴史的には合理主義者と経験主義者の分裂となってあらわれている。

 帰納inductionと演繹deductionを用いて一般原理はみちびけるのか。これはカントの問いである。

 ※deduction演繹とinduction帰納をゴッチャにするというとほうもないあやまちをおかしていた。ところが読解にそれほど支障をきたしていないのは、自分がもともと帰納演繹といった哲学用語に触れていないからだろう。deductionはdeduction、inductionはinductionとして英語の内部だけで処理できていた。とはいえテストなら0点である。

 8 how a priori knowledge is possible

 無限の個別例が存在することがらについて一般原理をみちびくには、経験に先んじる(先見的)必要がある。これがa prioriな知識である。

 カントは、われわれは純粋に分析的でない、つまり反対命題が矛盾しえる、先見的知識をもっていることをあきらかにした。また知識についての理論の重要性をあきらかにした。

 カントは、数学、幾何学含めたあらゆる命題が、統合的syntheticであって分析的ではないことを発見した。命題分析はこたえを導くことができない。

 カントは、思考は関連the relationsを生み出すといった。これにたいしてはおおくの反論がある。Aがわたしの部屋にある、という命題は、Aやわたしが知ろうが知るまいが真実である。よって関係は精神的(思考によってうみだされる)でもなく、物質的でもない世界にあるといわねばならない。これがプラトンのいうイデアの世界だという。

 9 the world of universals

 議論をすっきりさせるためにプラトンの「イデア」の世界を、われわれはuniversals普遍原理の世界とよぶ。普遍原理を否定することはできない。普遍原理なしにわれわれは「白」や「三角形」といったものを認識できない。相似の関係こそが普遍原理である。

 関係もまた普遍原理である。エディンバラがロンドンの北にあるというとき、これはわれわれが知らずとも真である。エディンバラやロンドンと同様、「北に」という関係も、普遍原理に属する。よってわれわれがつくるのではなく、われわれは理解するにすぎない。よって関係は精神上のものではない、思考に依存していない、独立したものである。

 もっとも、「北に」などの関係は、ロンドンやエディンバラのように特定の時空に存在するわけではない。時空上にない、精神的でも物質的でないこの関係とはなにものか。「白」について考えるとき、精神にあるのは「白」ではなくわれわれが「白」と考えるものである。

 普遍原理の世界は存在beingの世界に属するという。しかしexistenceとbeingのちがいがよくわからない。existenceは物理的に実在するということだろうか。beingの世界は数学者、論理学者といった完全を求める人間にとってよろこばしい、不変の世界である。existenceの世界はあらゆる物体、経験所与をふくむあいまいでうつろいやすい世界である。当面はイデアの世界と形而下の世界、と浅い解釈で保留しておくしかない。

 ふたつの世界は形而上学者、つまりわれわれにとっては公平impartialであり、どちらも実在のものであり、重要である。

 10 on our knowledge of universals

 普遍原理の知識には、接触acquaintanceによる知識、記述による知識、上のふたつ以外による知識、の三つがある。接触による知識とは本書のはじめのほうの感覚単位を通しての普遍原理の知識である。たとえば白いばんそうこうを何回も見るうちに「白」という類似を発見し普遍原理にいたる。知覚属性ともいわれ、抽象化の程度はほかより低い。前後、類似などの「関連」も普遍概念であり、これらも感覚単位から得られる。

 2+2=4にもどると、これは一般概念2と4との関係にかんする叙述である。よって「すべての先験的知識は一般概念の関係を扱う」という命題が成立する。2+2=4は一般概念であり、特定の組み合わせを示唆しない。特定の組み合わせを示さずとも理解可能である。逆に特定の組み合わせだけでは一般概念は導き出せない。

 「人間によって考えられたことのない、また考えられることのないだろう整数の組み合わせは100以上ある」、この命題は真である。具体例を考えた瞬間、命題からはずれるので、直接個別に触れることはできない、つまり経験することはできないにもかかわらず、この命題は真なのである。

 真理の知識は直観的知識とかかわる。

 11 on intuitive knowledge

 self-evidence自明さには程度がある。完全に真実に近い自明と、推測にちかい自明がある。つぎに真理の性質をあつかう。

 12 Truth and falsehood

 知覚する知識のばあい、真理か誤謬かという問題はない。どのような意見が真か偽かでなく、真理と誤謬はいったいどういう意味なのかをまず定義する。

 ……1真理に関する理論は誤謬も考慮に入れる、2belief意見のないところに真偽はない、3意見の真偽は意見の外側に依存する。

 真偽は言説の属性だが、真か偽かは外部に依存する。

 言説は主体subjectと複数の客体objectからなり、それぞれの関係は語順によってつくられる。この客体と客体がつくる関係が事実と一致する場合その言説は真であり、一致しない場合not correspondは偽である。

 13 knowledge, error and probable opinion

 われわれはなにが真でなにが偽かを知りたい。では「知る」とはなにか。真である言説がすなわち知識、ではない。知識はその結論にいたる過程を重視するので、予測があたったとか、部分的に勘違いしているが結論は一致というのは知識とはいわない。

 「知識とは既知の推測からただしく演繹されたもの」である。こまかくいうと「二次的な知識とは、直観的に知られた推測から妥当に演繹されたもの」という定義がただしい。

 真の信念は論理的過程なしにおこりえない。ニュースで王が死んだという記事を読むと、われわれは王が死んだと考える。そのとき、印刷された文字から意味を読み取るということについて、われわれはなにも意識していない。つまりそこに論理的思考ははたらいていない。

 知識は「蓋然的な意見」である。いかなる定義も誤解をまねくのですべきでない、という。

 AのBへの愛、はAにのみ自明である。あらゆる精神的ことがらや知覚情報は当人にのみ自明である。ところが普遍原理にかんする事実はそうではない。普遍原理の自明性にはおおくの人間が触れることができる。自明の事実から判断にいくときにまちがいがおこりうる。判断が事実とむすびついているときその判断は真である。

 われわれの確信が、直観や直観から論理的もしくは心理的に導かれていて、真であるとき、これは知識である。われわれの確信が真でないとき、誤謬である。知識でも誤謬でもなく、自明性にも基づいていないとき、これは蓋然的意見である。よってわれわれのいだく大部分は蓋然的意見である。

 蓋然的意見は、論理的一致coherentをその確実性の基準criterionにすることができる。蓋然的意見がほかのと一致することで確実性をもつ。科学の仮説や哲学の仮説がその例である。蓋然的意見probable opinionだけでは確実性には到達しない。

 

The Problems of Philosophy

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