うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『民族とナショナリズム』アーネスト・ゲルナー

 議論はナショナリズム、国家、民族の定義からはじまる。

 ナショナリズムとは、民族的単位と政治的単位が一致していなければならないとする思想である。政治的単位たる国家とは、暴力を独占する正統性をもつ機関(ヴェーバーの定義)である。国家は、先農耕社会を経た農耕社会に成立し、産業社会となった現在では国家のない場所はない。民族とは、文化を共有する集団か、お互いに同じ民族であるとおもう意志に基づく集団である。

 

 民族の定義が生物学や遺伝学に基づいていない点に留意すべきである。

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 先農耕社会―農耕社会―産業社会という流れは、識字の普及と並行しているようだ。はじめはだれも文字をもたず、やがて一部の者がもち、ついに誰もがもつようになった、というのである。

 農耕識字社会は多様だが、ナショナリズムが成立することはほとんどなかった。これは民族を定義する際に必要な文化の統一がなかったためである。

 まず、農耕社会において、識字とはエリートがつかさどる能力であった。識字は収税や勘定、行政などを担うようになり、またこの能力を自分たち特権階級の外に流出するのを防ごうと試みた。よって社会の上層部の文化は拡大しなかった。

 次に、直接農耕従事者たちは仕事の性質上地方に固まることを余儀なくされ、またこの地方共同体同士の横のつながりは薄かった。彼らは容易に方言や風習などを分化させていった。

 これが、農耕識字社会において、高文化による文化統一がなされなかった原因である。

 農耕識字社会における知識階層の種類にはいくつかがあり、たとえば開かれたエリートと閉じられたエリート、世襲の有無について分かれる。

 農耕社会は質の悪い金属のように、腐敗に向かいやすかった。エリートはみな自己の永遠化と権益保持に腐心した。マルクスの説と異なり、本質的に不平等と差異から成り立っていた農耕社会は、やがて産業社会に移行することで平等に直面するのである。この平等こそが、ナショナリズムを論じる上で重要になる。

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 産業社会は「分析の精神」、ウェーバーによれば規則性と効率性を重視する近代精神によって生み出された。この社会は、農耕社会に比べ平等で、流動的であり、また階層同士の隔絶が小さい。

 国家によって秩序立てられた教育機関が、読み書きそろばんを習得させることができる。こうした一般的で広範にいきわたったコミュニケーション能力の付与が、経済成長に必要なのだ。近代的な国家的教育制度こそが、産業社会に不可欠な高水準の能力や技術を可能にするのだ。

 彼は、ナショナリズムがこうした産業社会特有のケースであることをたびたび強調している。

 ――人間集団を大きな、集権的に教育され、文化的に同質な単位に組織化するナショナリズムというものは、……可能性のひとつに過ぎず、大変稀なものである。ナショナリズムの真の説明に決定的なことは、その特殊な根源を確定することである。

 文化はいまや社会のなかの成員がコミュニケーションをとる空気のようなものになった。国家は教育によって文化を普及させ、社会を国家に結びつけることを欲する。よって小伝統や地方伝統はもはやこの文化なしに生存できない。これをゲルナーは「族外社会化」とよぶ。

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 ナショナリズムは、産業社会における同質化、均一化の結果としてあらわれる。しかし、すべての民族にあらかじめ現れるわけではない。これはそもそも民族という概念があいまいだからである。言語の類似性でいえば、ラテン語諸国がそれぞれ独立しているならば、都道府県も独立していなければならないはずだ。

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 民族とはナショナリズムが生み出すものである。

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 産業社会は流動的で均質であり、平等への期待に満ちている。一方で、遺伝的要素や言語など、平等化、均一化を妨げる力(これは耐エントロピーとよばれる)も存在する。

 勃興するナショナリズムには、文化の不一致によるコミュニケーション不全に起因する初期ナショナリズムと、後者のような耐エントロピーに起因する後期ナショナリズムとがある。

 近代社会の構成要素は、教育と活発な高文化、それに強制力の独占化である。かつてのように、牧童であると同時に兵士、百姓であると同時に兵士、ということは近代社会ではおこらない。強制力を持つものは持ち、持たないものは持たない。

 プラムナッツの定義に、西欧ナショナリズムと東欧ナショナリズムという区分がある。これは、近代社会構成要素のうちの、高文化の有無に焦点を当てたものである。高文化がすでに成立している民族は、たとえばドイツやイタリアのように、比較的スムーズに国家を建設することができる。しかし、バルカンのように、高文化が成立しておらず、民族自体も混交している場合、独立への道のりは暗澹たるものになる。

 古来、政治的な力の分散はどのようにおこなわれてきたか……金貸しや刑執行など、力をもつ行政というものは、代々軽蔑された民族、マイノリティがおこなってきた。これにあてはまるのがユダヤ人、ギリシア人、アルメニア人、パルシー教徒らである。これは耐エントロピーとなる要素でもある。

 ――近代の条件の下で、経済的優位と文化的同一性とが、政治的、軍事的弱さと結びついた時に生じる悲惨で悲劇的な結果についてはよく知られており、繰り返す必要はないであろう。その結果は、ジェノサイドから追放にまでわたっている。

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 ナショナリズムは特定の教典・原点がない。また、ナショナリズムはその主張と本質が徹底的に乖離していて、「虚偽性に満ちている」。

 

 ナショナリズムに関する誤った定義を箇条書きするとこうなる……それは自然で自明で自己完結的である。それは不測の出来事によって生まれたものであり、それなしで済ますことが産業社会においても可能である。それは、本来なら「階級」に与えられるはずだったメッセージを「民族」が受け取ってしまったためにおこった(マルクス主義の「宛先違い」理論)。それは古来の先祖や土地の力が再出したものである。

 

 伝統主義を否定するという同じ立場であれど、合理主義とナショナリズムは一致しえない。

 

民族とナショナリズム

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