うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『インドネシア』水本達也

 インドネシア関連の本が家にいくつかあるが、これがいちばんとっつきやすいようだ。近年の重要トピックであるイスラーム過激派、イスラーム主義についての項もあり、参考になる。

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 インドネシアは世界最大の島嶼国家であり、二億のイスラム教徒をかかえ、三〇〇の民族集団、二〇〇~四〇〇の使用言語をもつ多民族国家である。

 「本書は、スハルト独裁政権の崩壊から民主化に取り組むインドネシアという国家の苦悩を、その多様性を構成している民族や宗教などの立場から解き明かす試みである」。

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 老ジハーディストの告白

 二〇〇二年、バリ島で爆弾テロがおこり、二〇〇人の死者を出した。インドネシア政府はこれを「アルカイダによる犯行であり、インドネシアは被害者」だと強弁した。インドネシア国内にテロ組織はいない、という公式見解が崩れれば、米国の標的にされる恐れがあったためである。また、本当の実行組織であるJI(ジェマー・イスラミーア)に言及すれば、インドネシアの過去を蒸し返すことになるからである。政府は、テロがインドネシアに根をもっていることを否定しようと躍起になった。

 ところが国外の捜査支援やテロ対策への圧力におされ、犯人は捕まった。彼らは全員がインドネシア人であり、JIに所属していた。JIはアルカイダよりはるかに長い歴史をもつジハーディスト(聖戦遂行者)であり、その創始者がアブ・バカル・バシル師とアブドラ・スンカル師である。

 近代インドネシアは常にイスラムと対立関係にあった。バシルが生まれた当時、蘭印(オランダ領インドネシア)は日本軍が進出していた。

 一九四五年八月十七日、スカルノは独立を宣言する。スカルノイスラムではなく民族主義・近代的法体系・政教分離に基づいた世俗国家の建設を推進したため、イスラム国家建設派はこれに反対する。イスラム国家派は分離主義、反乱などと称され国軍の弾圧を受ける。

 やがてスハルトが政権につくと、彼はまず共産党員を虐殺し共産勢力を抑え込む。つづいてDI「ダルル・イスラーム」と称される国内のイスラム運動家たちにスパイを送り込み、一斉摘発する。アフガン戦争においてアメリカは対ソ戦略のためイスラム過激派を援助したが、スハルトは米国に先立って対共産勢力のためにDI(デーイー)を支援し、利用したあとに弾圧した。その一方でイスラム教育を推進し、七十年代末にはイスラム復興とまで評されるようになる。

 バシルとスンカルはイスラム寄宿学校を設立し、優秀なジハード戦士たちを育成していた。彼らの名は活動家のあいだでも知られていたが、スハルトのDI弾圧のときに投獄される。その後マレーシアに「聖遷」し、新イスラム国家建設を主張する。この過程でエジプトの過激派・イスラム集団などと交流を深め、七九年ソ連のアフガン侵攻の際、バシルとスンカルは五人の生徒をムジャヒディン(義勇兵)として送り込む。

 スンカルらは九三年、JIを結成する。JIはインドネシア、マレーシア、シンガポールなどで勉強会をひらくかたわら、兵士候補や高学歴者・富裕層のリクルートに努める。その後、JIの構成員であるハンバリとアルゴジがアルカイダと接触し、バリ島爆弾テロをおこしたのだった。

 九七年アジア通貨危機の波及によってスハルトが失脚すると、国内は混沌状態に陥る。ハンバリら若いJI構成員は、バシルを師と崇めながらも(スンカルはすでに病死)、師のやり方は古い、手ぬるいと考えていた。若い世代はアルカイダに共感し積極的にテロをおこなった。

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 民主化の果実と代償

 スハルトが支持を失って辞職すると、副大統領ハビビが指導者の座につく。しかし「国軍、ゴルカル(与党)、汚職・腐敗・縁故主義」という問題はまったく解決せず、スハルトの横領や人権侵害についても追及はおこなわれなかった。ハビビが退くと政党政治の時代がはじまった。

 イスラーム指導者ワヒドとスカルノの長女メガワティが大統領選をおこない、僅差でワヒドが大統領、メガワティが副大統領となる。ワヒド内閣は国内の諸派をまとめた妥協の産物だった。ワヒドは国軍を「国民の敵」として印象付けた。国軍はその対抗として、マルク州やスラウェシ島ポソなどの宗教抗争を扇動し、自分たちの存在感を浮かび上がらせようとした。これには国軍の支援するイスラム過激派が関係していた。

 経済政策で失敗したワヒドはスハルト追及に力を入れて支持を得ようとする。これもうまくいかず、ワヒドは閣僚や国軍・警察人事に口を出し、最終的に側近や忠実なユドヨノらも解任していく。ワヒドが国会凍結を宣言すると、軍・警察はこれに従わず、ワヒドは辞職に追い込まれる。つづいてメガワティが大統領となる。

 スカルノの長女と、鳴り物入りで登場したメガワティだったが、そのやり方は限りなくスハルトに近かった。西側諸国、米国に歩み寄る一方、独立勢力に対する弾圧を再開した。二〇〇四年、メガワティは、国内情勢にかんする調停で台頭したユドヨノに大統領選で負けた。

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 三〇年間の独立戦争

 インドネシアの支配的民族はジャワ人であり、これにたいし不満をもつ少数民族がいる。ジャワ人と少数民族の格差は、ジャカルタと地方の経済格差となってあらわれている。

 インドネシア国軍の地位は独特であり、簡潔にいうと文民統制以上軍事政権未満といったところである。国軍の前身は日本が創設した民兵である。日本の撤退後、スカルノ率いる独立派とオランダ軍のあいだで戦闘がはじまった。独立派ゲリラは劣勢に立たされ、スカルノらがオランダ軍に拘束された。スカルノは当時軍を率いていたスディルマン将軍に投降をよびかけたが、スディルマンはこれを拒否し山岳地帯にこもって戦闘をつづけた。その後、国連の非難をうけてオランダはインドネシアの独立を承認した。この出来事以来、国軍は政治の道具ではなく独自の政治勢力として力をもつことが許されてきた。

 スディルマン軍司令官の部下、ナスティオン陸軍参謀長は陸軍セミナーでこう述べている。

 「国軍は西欧諸国の軍隊のように『政府の道具』ではない。一方で南米諸国のように政治権力を独占するものでもない。そして、将校は政治経済、外交などあらゆる意志決定に参加することが認められなければならない」。

 また、独立後から絶えない地方の分離運動やイスラーム過激派も、国軍に発言力を与える要因である。

 アチェはオランダの再征服に最後まで抵抗した地域であり、インドネシアのなかでも厳格なイスラーム教徒が居住する。彼らは独立後、自分たちの地域がイスラーム法にのっとった自治州として認められなかったことに憤慨し(北スマトラ州に併合)、自由アチェ運動GAM)を組織し、国軍相手にゲリラ戦を展開する。以降、GAMおよびアチェ住民と国軍のあいだで凄惨なたたかいがつづくことになる。

 東ティモールは長くポルトガル領であり七五年に独立したが、インドネシア東ティモールが赤化することを危惧し、侵攻を開始する。このとき国軍はアメリカから支援を受けていた。

 二〇〇四年、インドネシア沖大地震アチェ州は壊滅的打撃をうける。これをきっかけにフィンランド大統領の仲介でGAMインドネシアは和解に達し、アチェの地方政党の設立を認める。

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 外交の舞台へ返り咲き

 近年のASEANは、日中外交の場として都合よく開催されている感が強かった。

 ASEANプラス3(日中韓)では中国の発言力が大きくなってしまう。日本およびインドネシアはこれを警戒してオーストラリアとニュージーランド、インドも加えようと主張する。統合プロセスを複雑化することで、インドネシア東アジア共同体設立を極力阻止しようとしていた。

 スカルノ時代は国内統一のために外国と敵対関係をつくりだしていた(対決外交)。スハルト国連加盟、ASEANの創設など協調関係を築く一方、「東南アジアの雄」としての地位確立に尽力する。

 通貨危機同時多発テロバリ島爆弾テロを経て、インドネシアASEANを基盤とした非同盟主義の再構築をめざす。インドネシアは自由選挙の原則に基づいた軍事同盟としてのASEANという行動計画案を提示した。

 インドネシアにおいては、イラクやアフガンの事例は中東が団結していなかったためにおこった、という考えが多数を占めていた。域外大国につけこまれないため、ASEANで団結する必要があるとインドネシアは考えたのだった。

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 ユドヨノ政権は経済状況の悪化から支持率が低下している。

 スハルト時代に確立した汚職システムは公務員のみならず民間にまで広がった。また、東ティモールアチェにつづいてパプアも独立運動のきざしがみられる。アチェでは国軍と独立派ゲリラがドラッグビジネスに奔走している。

 

インドネシア―多民族国家という宿命 (中公新書)

インドネシア―多民族国家という宿命 (中公新書)