うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『自由からの逃走』エーリッヒ・フロム

 歴史のすすむにつれて人間の精神は変化してきた。社会と人間精神は相互に影響を与えてきたのである。しかし人間心理について、「どのような外的条件にも適応できる」、「無限に可塑的なもの」と認識することはできない。人間性がもつ「ある種の固有なメカニズムと法則」を発見することが心理学の課題である。

 人がうまれてから自我を得るまでの成長と、原始人から近代人へといたる人類の成長とを重ね合わせるというのは、アードレイの本でも見られた。フロムが提唱者なのか、もとからあるのだろうか。

  ***

 人間は生き残るために環境に適応しようとする。そのため、人間は生まれた時点から家族、その社会の経済構造などから大きな影響をうけ、これらによって人間性が形成される。どんな環境においても人間は集団で行動する。生まれたときに、他人の力がなければ排泄物の始末もできないことを人間は知る。そのため、人間は孤独、とくに精神的な孤独をおそれる。精神的な連帯や一体感がなければ人間は発狂する。さまざまな場面で人間は自分の存在がいかに瑣末なものかを思い知らされる。このためつながりや、自分の存在の意味がわからないとき、ひとは生きる気力を失う。自由が増えれば増えるほど、こうしたつながりは薄れていく。

  ***

 全体主義の時代と宗教改革の時代は類似している。新しい社会構造におびやかされた階級、自由の多義性、そして「人間性の弱さ、個人の無意味さと無力さ、外的な力に隷属しようとする要求」などがその共通点である。

 西ヨーロッパ中世はこれまで過小評価か過大評価かのどちらかに傾いて曲解されてきた。しかし、中世暗黒世界論者と中世理想社会論者が主張する、中世における安定・秩序と、自由の不在・不公平は、おなじものの表と裏なのである。

 イタリアからはじまるルネッサンスによって富を価値基準とする貴族と富裕層の文化がうまれた。かれらは従来の階級や家柄という束縛から解放されたが、同時に孤独と疑い、懐疑主義、つまり不安にさいなまれることになった。

 フロムによれば自由は孤独と不安と絶望を、束縛は帰属と安定感をともなう。

 宗教改革ルネサンスとは異なる性質をもつ。

 「すなわち、プロテスタンティズムやカルヴィニズムが、一方に新しい自由の感情を表現しながらも、同時に自由の重荷からの逃避となった事情を明らかにしよう」。

 プロテスタンティズムやカルヴィニズムの心理的分析をフロムは試みる。心理的分析とは、思想自体の正誤判定ではない。提唱者や支持者の心理的背景を推測することである。レーニンの思想が彼の鬱屈した人格に基づいていたとか、そういう類の分析である。

 「パースナリティの強い欲求にうらづけられていないような思想は、その人間の行動や全生活にたいし、ほとんど影響がない」。思想の背後に潜む動機を彼は重視する。

 ルターの分析は今読むと笑えてくる。どこぞの小説の人物紹介にあてられていてもおかしくない、典型的な独裁者、フロム曰く「権威主義的性格」の像である。

 ウィキペディアの説明とは異なり、この性格の結果は単にファシズム国粋主義にとどまらない。

 

 ――かれは権威を憎み、それに反抗したが、いっぽう同時に、権威にあこがれ、それに服従しようとした。かれの全生涯を通じて、かれが反抗した権威と、かれが賞賛した権威とがつねに存在している……かれは極度の孤独感・無力感・罪悪感にみちているとともに、いっぽうはげしい支配欲をもっていた。かれは強迫的性格にのみみられるような、はげしい懐疑に苦しめられ、内面的な安定をあたえるもの、この不安の苦しみから救ってくれるものを、たえず求めていた。かれは他人を嫌い、とくに群集を嫌い、自分自身をも、人生をも嫌っていた。そしてこの憎悪から、愛されたいというはげしい絶望的な衝動が生まれた。かれの全存在は恐怖と懐疑と内面的な孤独にみちていた。このようなかれのパースナリティの基礎によって、かれは心理的に同じような状態にあった社会集団のチャンピオンとなることができたのである。

 

 中世末期のカトリック学者たちは、努力や勤勉が神の救済の手助けとなることを説いていた。一方、ルターはじめとする社会の負債を食ったひとびとは、無力感を感じていた。

 ルターは無力感を打ち消すために、「神とつながっているという主観のみが信仰を成立させる、また、努力はまったく関係ない」という結論に達した。

 「確実性への強烈な追求は、純粋な信仰の表現ではなく、たえられない懐疑を克服しようとする要求に根ざしている」。

 

 ――すなわち、かれらは孤独となった自我をとりのぞくことによって、また個人の外にある圧倒的に強力な力の道具となってしまうことによって、確実性をみつけだしている。

 

 カルヴィンもまた人間の不平等と自己の存在の無意味・無力を叫び、一方で世俗的救済のための労働を認めた。

  ***

 フロムいわく、資本主義は人間を伝統的呪縛から解放し、積極的自由を増加させ、同時に、個人を孤立させ、無意味と無力の感情をあたえた。

 宗教改革につづいて彼は資本主義における人間疎外を説明する。資本は人間の主人となった。ルターやカルヴィンによる自己否定は、自己以外のものへの奉仕へと人間を誘導した。人間の世界が人間の主人となった。国語教科書みたいな、近代労働における人間疎外論がつづく。

  ***

 ナチズムの説明のために、フロムは二種類の人間性を論じる。

 それは権威主義的人間と自動機械人間である。権威主義的人間は前述のルターのような人間である。動機械人間とは、自己をにせの願望で満たし、さらに偽の自己をつくりあげた者が、自己を喪失した不安から、周囲に順応すること、他人に承認されることをひたすら求めるようになった人間性のことをいう。

 権威主義的人間と、自己を失った付和雷同人間である自動機械、この型の人間たちが、ナチズムとデモクラシーを成立させたのだとフロムはいう。

 ナチズムの社会経済要因と心理要因のうち、本書では心理要因を扱う。いわく、ナチズムを積極的に受け入れたのは「品性の卑しい俸給労働者(ホワイトカラー、筋肉労働者、商店主)」だった。敗戦と君主制の崩壊が彼らの心を破壊した。こうした伝統的権威の崩壊は、権威を子供に伝える親の権威もまた同時に下げてしまった。若者は老人に優越を感じるようになり、行動に走るようになった。

 「中産階級は恐慌の状態におちいり、無力な人間を支配しようとする渇望と、隷属しようとする渇望でいっぱいになった」。

 エスパーかなにかのように代弁されてしまう中産階級もかわいそうだ。このあたりの心理的要因の説明は、話半分に読んでおくのがいいだろう。

 鶏口よりも牛後をえらぶ姿勢が、ヒトラーやルターを例とする権威主義的性格の特質である。

  ***
 自分自身より上のなにものからも束縛されぬ精神が自由だという。この自由と、真理と、個人的自我を第一目的とする社会の建造こそ、ニヒリズムにたいする唯一の対抗手段である、と本書はいっている。

 典型的近代論だが、はたして近代に限定される状況なのだろうか。近代以前の人間はそれほどおめでたかったのだろうか。火炎地獄から針地獄に移動したというだけの話ではないのか。彼らのいうように、ある日、抑圧から解放されて天国があらわれるなどということを信じてはならない。

  ***

 芸術家は勝てば芸術家に、まければ気違いになる。

 

自由からの逃走 新版

自由からの逃走 新版