うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『ソヴィエトの悲劇』マーティン・メイリア

 四部構成で第一部は社会主義の概説を、第二部はロシア革命からスターリン時代を、第三部はスターリン以後からブレジネフまでを、四部はソ連崩壊をそれぞれ論じる。

 「社会主義」「ヨーロッパ」など、自分の使う用語をしつこく定義するので頭が狂いそうになるが、このくらい厳密でないとなにかを論じるのは難しいということだろう。

 政治・イデオロギーを中心に叙述が進んでいくが、目的はマルクス主義の外からソ連を説明することにある。マルクス主義、マルクス主義用語、共産党の用いる論理、こういったものをすべて調査対象として扱うことが重要なのだ。

 レーニンの時代からすでに、彼ら自身による説明は、理想からかけはなれた現実を糊塗するための隠れ蓑の役割を果たしていた。

 ケインズの有名なことば(経済学者と政治哲学者の影響力の大きさと、それに意識的であること)が引用されている。自分も常に意識しなければならない。

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 ――本書の具体的な課題は、ソヴィエト現象を理解するうえで、社会的・経済的エネルギーのもとになったイデオロギーや政治の最重要点を、もう一度はっきりさせることである。

 ソ連研究が長年のあいだ間違いをおかしつづけたのには二つの原因がある。まずソ連が秘密主義的であり資料が少なかったこと、つぎに社会主義というイデオロギーソ連分析にバイアスをかけていたことである。ソ連社会主義を標榜したが実体は著者いわく「ソヴィエティズム」だった。西側研究者はこのソヴィエティズムをとらえることができず、(スターリンロシア革命などの)多少の逸脱があっても最終的には社会主義にいたるだろうと予測した。一方東側の反体制学者は、ソ連を「国民の徹底管理を制度上の目的とする」全体主義国家、つまりソヴィエティズムの国と考えた。

 本書は国家の原動力となった「社会主義」を中心的にすえたソ連史である。

 

 第一部 社会主義の起源

 社会主義ということばは民主主義と同様あいまいで実体をつかむのが困難である。近代思想をひたすらなぞりながらマルクス主義が誕生するまでを説明している。マルクスの著作はドイツ観念論キリスト教の影響が強い。

 

 マルクス主義の特徴として還元主義的思考があげられている。いわく、社会経済こそが実体であって、この経済に基づく階級を隠蔽するためにあらゆる文化、哲学、政治、イデオロギーがつくられる、というのである。この思考は現実の政治やイデオロギーを見過ごすことにつながる。「すべては~に由来する」、「~こそ本質である」という思考はマルクス主義に限ったことではないが、穴もあるのだということを認識すべきである。

 還元主義reductionismということばが確立しているようだ。飯さえ食えれば満足するとか、すべては性欲に由来するとか、こうした安直な思考法をいましめなければならない。

 資本主義ということばもまた社会主義者がつくりだしたものにすぎない。資本主義対社会主義、右翼対左翼、こうした対決が時代と密接につながっていたことを認識すべきである。

 

 第二部 実験期

 十月革命は権力空白状態をボリシェヴィキが制したクーデターであって、彼らの語るような革命ではない。クーデターが成功したのは戦争によるところが大きい。政権奪取前後、ボリシェヴィキたちはこれが階級、プロレタリアートによる革命であることを装うのに腐心した。政治は社会や経済とともに独立した変数であり、社会階級が政治を支配するということはありえない。国と政府、政治にはそれぞれ固有の論理がある。

 政権奪取後の独裁はイデオロギーによって導かれた。政権奪取から内戦の過程で、レーニンいわく「戦時共産主義」の建設がすすめられた。特徴的な機構が党、コミッサール(政治委員)、チェー・カー(警察機構)である。党は権力の集中を、政治委員は党による技術者・軍人の監視を、チェー・カーは反革命の取り締まりや食糧徴発を担った。このシステムが国家全体に広がることでスターリン以後の全体主義体制は確立した。

 赤衛軍、白衛軍ともに第一次大戦の軍隊と比べれば烏合の衆で、ドイツの敗戦や白衛軍の失敗などの偶然が重なってボリシェヴィキは勝利できたのだった。

 ボリシェヴィキがロシアの社会構造を完全に変形できたのには理由がある。帝政ロシアは未熟で野蛮であり、市民社会をもたなかった。彼らには戦う相手となる階級がそもそも存在しなかったので、勤労大衆より上の富裕層や貴族を一掃することで、社会を平板化することができたのだ。空白となった上層部には党幹部が居座った。

 

 ――こうして、一九一七年から一九二一年にかけての大革命動乱時代が終わる頃には、ソヴィエティズムの基本的枠組みと見取り図ができていた。すなわちそれは、独占的支配をもった党国家、ソヴィエトと党機関による二重行政、チェーカーによる全面的監視、そして一時的なものではあるが中央計画経済および農業集団化である。……これがスターリンから「ペレストロイカ」前夜までのソヴィエトの発展の基本路線を形成する原型(モデル)なのである。

 ソ連研究においては、トロツキーブハーリンなど、正統から逸脱した人間を神聖視する現象がたびたび見られた。彼らは、「裏切られた」革命の、真に正しい道を示すものとして、社会主義の擁護のために用いられた。

 レーニンの企画したNEPは、その後スターリンの五カ年計画に取って代わられた。スターリンの所業を彼のパラノイア、サディズムのみから説明するのは、その時代すべてを一人物に還元する浅薄な思考である。彼の独裁を可能にするソヴィエトの制度があったはずである、と著者はいう。

 スターリンの場合、人事部に相当する書記局を牛耳ったことが、出世の鍵となった。著者いわく、政敵が政治論争、イデオロギー論争を真剣にやっているあいだ、スターリンはひたすら党組織の構造を学んでいた。

 大粛清は一九三六年から一九三九年のあいだにおこなわれた。それ以前から反対派にたいする共産党除名措置はおこなわれていたが、フランス革命の経験から、スターリンは敵を銃殺することができなかった。一九三四年、ソヴィエト第二位のキーロフ暗殺事件がおこると、スターリンは首謀者らしきものを摘発し銃殺した。これ以来政敵にたいする処刑が慣行となった。脅威は反対派でなく、彼自身の部下だった。スターリンは三十年代初頭の大突撃政策であきらかな失敗に陥っていたから、自分の部下たちがスターリンを更迭する可能性は小さくなかった。そこで彼は粛清をはじめた。粛清を担ったのはスターリンから任命されたエジョフである。粛清によって世代交代が進み、ソ連成立以後に物心のついた、フルシチョフ、ベリヤ、ジダーノフ、ブレジネフを代表とする世代が出世した。この一連の動きは「粛清、進歩、社会移動」といえる。

 粛清や強制収容所などはすべて秘密裏におこなわれたが、国民は薄々何がおこっているか気がついていたため、「このとき以降、ソヴィエト連邦はおおむね恐怖によって支配されるようになった」。

 

 第三部 赤い帝国

 大祖国戦争は恐怖政治におびえていた国民にとって福音に等しかった、とパステルナークは書いている。戦後、スターリンは中国の成立や冷戦に悩まされた。後継者にはマレンコフが就いたが、フルシチョフは彼を失脚させ、かわってトップの座についた。彼はスターリン批判をおこない、改革共産主義を推進することでソ連を活性化させようと試みたが、崩壊への道を早めただけだった。フルシチョフには保安警察の後ろ盾がなかったので、政敵を処刑することはできなかった。

 この時期からノメンクラトゥーラとよばれるエリート党員の管理社会化がはじまった。知識人の25%以上が党員であり、専門技能を身につけて各分野を牛耳った。

 パステルナークやソルジェニーツィンがもてはやされたのは、スターリン批判の一環である。とくにソルジェニーツィンは収容所の実態をはじめてあきらかにした作家であり、はじめはフルシチョフの政策を後押しするかにおもわれた。一方、スターリン社会主義のカリスマとして国外から尊敬されていた。フルシチョフが批判をおこなったことで東欧は反発し、また中国も反発した。中国はソ連と国境を接しており、天然の敵対国だった。フルシチョフ時代の中国が教条的に西側と対立したのにたいし(アメリカと中国は台湾をめぐって対立関係にあった)、ソ連は西側とある程度妥協をした。それでも、フルシチョフは劣った軍事力を糊塗するためにキューバ危機などの騒ぎをおこした。

 一九六四年、フルシチョフはクーデターによって総書記の座をおろされる。以降ソ連は実質ブレジネフが指揮をとる。彼の治世を「ネオ・スターリニズム」と呼ぶものもあるがこれは適切ではない。ソ連の社会構造が確立したため、スターリンのような恐怖政治と粛清はもはや不可能になっていた。ブレジネフ時代に言論・文化の引き締めはおこなわれたが、スターリン時代の様相はもはや戻らなかった。

 ブレジネフ時代に計画経済は破綻し、闇経済がかわってさらに発達し、マフィアの誕生につながった。スターリン時代以来影の経済は国民の生存になくてはならぬものだったが、時代が下るにつれてマフィア化し、党の地方権力と結託することが多くなった。

 ――実際、辺境のいくつかの共和国では、マフィアが地方の党組織を事実上牛耳っていたし、もっとはっきりいえば、地方党組織がマフィアに鞍替えしてしまっていた。……華々しい例は、ウズベク共和国の党書記であったラフィク・アジュロフで、彼は綿花生産高を水増ししてモスクワから余分な金を受け取っていたばかりか、ハーレムをもち、自分に批判的な人間の拷問室までもっていた。

 ブレジネフと彼の子分、親族もまた、「ドニェプロペトロフスク・マフィア」という有名なマフィアを経営していた。「党幹部の安定」政策はこのような老人支配、マフィア化をうながした。

 また、ノメンクラトゥーラと軍、産業が一体化したため党軍産複合体国家などともいわれた。

 七十年代末からポーランドをはじめとする東欧がソヴィエトの意向に背きはじめた。ワルシャワ条約機構社会主義諸国を守るものではなく、ソ連の頭痛の種となった。ブレジネフは一九八二年に死亡した。この時代にいたってもまだ言論の主流は「改革共産主義」であり、共産主義体制そのものが崩壊するとはだれも予測していなかった。

 

 第四部 終焉

 ゴルバチョフは抜本的な改革を進めることでソ連の政治経済を立て直そうとこころみたが、結果的にソ連は崩壊した。彼は中央集権機構を弱めたため、アルメニア人やアゼルバイジャン人などの独立運動がおこり、また東欧の共産主義は崩壊した。ペレストロイカをうたっていたゴルバチョフは東独の崩壊やハンガリーポーランドの崩壊を武力で鎮圧することができなかった。ゴルバチョフはソヴィエトに固執したが、エリツィンら民主派の台頭によって力を失い、一九九一年のクリスマスに辞職し、CIS(独立国家共同体)の成立を宣言した。

 中国の改革開放体制は、経済開放が必然的に政治変動もよびおこすという教訓を教えてくれた。ソ連は政治改革を先に進めたが中国よりも状況は悪かった。中国では農村社会が残されていたため部分的市場経済への移行が比較的容易だったのにたいし、ソ連の農村社会スターリン時代に徹底的に破壊され、巨大な党機構が代わりにすえられていた。だからこそ政治改革を先におこなったのだが、手綱を緩めることでソ連そのものが解体したのである。

 二十世紀における体制崩壊にはロシアや枢軸国のものがあるが、ソ連崩壊のごとき空中分解は例を見ないものだった。ソ連はこれによって敗戦と同程度の打撃をこうむったという。

 著者はソ連の失敗を、帝政ロシアやレーニン、スターリンではなく、社会主義イデオロギーそのものに帰する。

 ――ロシアの役割はむしろ、近代戦争で疲弊した歴史的に脆弱な市民社会というかたちでの社会的「白紙状態」のままこの実験に入り、対抗勢力の真空状態をつくってしまったために、共産党にその幻想の実現を許してしまったところにあった。

 共産主義後の世界として、警戒すべきはあらたなユートピアイデオロギーである。

 ――つまり、こうした問題が起こると、善意の大義名分が強制を正当化し、権力によってひどく邪道なユートピアへと強引に引きずっていくことになりやすい。しかも、こうした危険を避ける方法がない。なぜなら、ユートピアは不完全な社会では無限に湧き出てくるからである。

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 中国との比較のためにも今後本書の知識は役に立つだろう。本書はイデオロギーを中心にソ連を論じたものだが、同じように社会経済、その他の観点からの分析も読まなければならない。

 

ソヴィエトの悲劇〈上巻〉―ロシアにおける社会主義の歴史 1917~1991

ソヴィエトの悲劇〈上巻〉―ロシアにおける社会主義の歴史 1917~1991