うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『中国の近代化と知識人』シュウォルツ

 厳復は西洋思想を輸入・解説する際に、西洋人たち自身では気がつかなかった隠された傾向を発見した。それが「エネルギー」と「公共心」であり、英国自由主義思想の裏にある、隠された主題である。彼を分析することでまた西洋思想の隠された面をも知らされることになる。

  ***

 西洋と非西洋を比較する場合双方に知悉することが不可欠だが、非西洋と同程度に西洋も未知数である。二つの文化領域の比較によってわれわれは機知のもののあらたな面を発見するのみならず、人間存在の普遍的な要素を見出すこともできるかもしれない。

 本書は中国の知識人の動きから、西洋と非西洋との比較研究をおこなう。

 厳復は清末の知識人エリートである。知識人のことをシュウォルツは読書人とも形容する。書物は知識の源泉としておそらく現在より尊重されていた。

 列強の出現にたいし、清末知識人は既成の学問的枠組みのなかでの思考をせまられた。政治経済の領域には儒家と法家の伝統があり、法家は「富国強兵」の思想、軍事力と経済の関連を主張した学派だった。儒家が経済を「最低限生活可能なレベル」と考え、過度の利殖活動を非難していたのにたいし、法家の思想には経済成長や富国につながる重商主義的傾向が含まれていた。

 一八六〇年代の清の改革派知識人は、大方が前者の儒教的理想に依拠していた。彼らは軍事技術にこだわることに反対し、一方儒教に基づいた団結が西洋を撃退できると考えたが、これが大多数の勢力だった。馬建忠ら夷務専門家や政治家の李鴻章など少数派が、産業主義が軍事的発展に不可欠だと気がついていた。

 日清戦争に至り、中国は伝統的学問(儒学)をとるか、国家の存続をとるかのトレード・オフをせまられる。厳復はこうした環境下で成長した。イギリスに留学し強国の様子を目の当たりにするが、帰国後、役職に恵まれず鬱屈し、また清上層部の腐敗にも幻滅し、アヘンを吸煙する日がつづく。

 

 彼はスペンサーに傾倒し、また儒教の「孝」を西洋のキリスト教のごとき道徳概念として、近代自由主義と伝統的価値観を統合しようとこころみた。日清戦争によって中国国民のあいだに危機感が強まると、厳復は著作活動をはじめる。

  ***

 厳復は、スペンサーを論じたハクスリーの『進化と倫理』、つづいてスミスの『国富論』を翻訳する。ハクスリーの場合は縮尺意訳であり、スミスは比較的忠実な翻訳だが、いずれの場合も厳復の興味関心にもとづいた調子の変更がおこなわれている。

 厳復は社会ダーウィニズム、個人の利己主義が全体の福祉、最終的に国家の発展につながるという点に感銘を受け、これを強調したのだった。国家をひとつの有機体と見るスペンサーの思考や、儒教において従来忌避されてきた「利」の肯定は、彼には新鮮に映ったからだ。

 つづいて彼はミルの『自由論』、モンテスキューの『法の精神』の翻訳にとりかかる。

 スペンサー、デュルケムは人類社会の進歩を信じる、楽天的な進歩史観の持ち主である。一方モンテスキューは、社会が抵抗不能な力によって進歩することはないが、優れた人間=立法者によって改良を加えることが可能である、と考えた。厳復は中国を念頭においた解釈をおこない、スペンサーらからは進歩説を、モンテスキューからは立法者の法による社会改造という要素をまなびとった。

  ***

 晩年は中国の民衆のレベルに絶望し、彼らへの教育・経済水準向上を通しての漸進しか、中国を進歩させる方法はないと考えるようになった。孫文の共和革命には、人民に共和制をおこなう力がないとして否定的な立場をとった。厳復は中国を存続可能にするのは君主制のみと考えたが、以後の中国史を見るとこれは正しかったようにおもわれる。

 反動的・伝統的思考に退化したとされる晩年だが、政治的妥協として袁世凱を支持したことを別にすれば、中国を知り尽くした人物の意見として的確だったのではないか。

  ***

 人間性や知的水準を、法制度ですぐに改良することはできないと厳復は考えた。

 

中国の近代化と知識人―厳復と西洋

中国の近代化と知識人―厳復と西洋