うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『隋の煬帝』宮崎市定

 なぜこの人の文章は、未知情報が多い場合にも読みやすいのか、それをいずれ考えてみたい。

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 混乱時代たる南北朝を統一してできたのが隋王朝である。南北朝の頃からすでに人心は荒れており、暴力天子が多かった。これは後の煬帝の手本となってしまった。

 南朝は宋・斉・梁・陳の四王朝が次々に支配した。陳をのぞいた各王朝ではドラ息子が若くして皇位につき非行に走り、あげく誅殺されるという例がたびたび見られた。一方北朝鮮卑族による北魏が立てられたが、彼らは気性が荒かった。北魏では太武帝のときに筆禍事件がおこったため、その凄惨な王朝の内実ははっきりとは伝わっていない。

 「この王朝の周辺にはいつも殺伐な妖気がただよっていたことが知られる」。

 北魏は父子殺し、母子殺しのあと滅び、華北は東西に分裂した。東魏北斉となったがこれも不良天子を輩出した。彼らもまた鮮卑であり、漁色のひどさを漢人に批判されることになる。

 「中国の長い時代を見渡して、この南北朝という時代ほど、暗愚淫蕩な天子が数多く現れた時代はない」。

 三国時代から南北朝は平民の地位が下落した、いわば中国貴族政治の黄金時代だった。平民にとっては、常時戒厳令の時代だったといえる。また日欧と異なり、軍事力は各領主ではなく天子に集中していたので、封建主義が生まれる土壌もなかった。このため若年天子の悪行を止めることができず、こうした暴君が多数生まれる原因となった。

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 北斉が悪質な君子を量産している一方、西魏北周となった。西魏鮮卑と中国人の混合した王朝であり、異民族の侵入から国土を守らねばならなかった。長城にそった辺境警備のため、五つの鎮(駐屯地)を置いた。兵士は春・夏は牧畜に勤しみ、秋・冬は異民族の侵入に備えた。過酷な環境のなかで鎮には強力な紐帯が生まれ、やがて武川鎮軍閥となり、腐敗した西魏中央にかわり北周となって華北の西を支配した。隣の東魏南朝と異なり、北周には武川鎮軍閥の維持という明確な政治的目標があった。乱世には派閥が結束維持のために役立つ。

 北周は宇文泰から武帝まで、まっとうな君主が四代続き、ついに北斉を亡ぼし華北一帯を支配することになる。

 ――精神をひきしめることはむずかしく、内外からの適当な刺激や練成が必要であるが、放埓に流れるのはいとやすい。これが人間の弱点である。

 武帝の子宣帝はすき放題に遊ぶため子の静帝に皇位を譲り自分は天元皇帝と名乗り、上皇のような地位となった。

 乱れた天子を誅する勢力の筆頭となったのが、後に隋の文帝となる隋国公楊堅である。

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 楊堅天元皇帝が死ぬ前に朝廷を買収しておき、天元皇帝が死ぬとすかさず権力を掌握した。しかし彼の前には二つの障害があった。二大老将軍たる尉遅廻(うつちけい)と韋孝寛(いこうかん)である。彼らは齢七十を越す老齢だったが、楊堅のキャリアを妨害してくるに違いなかった。楊堅は韋に尉の討伐を命じ、大決戦ののち尉は自殺する。まもなく韋も、おそらく老衰だろうが、あっさりと死んでしまう。楊堅をはばむものはいなくなった。

 なぜ韋孝寛はやすやすと楊堅の命に従ったのだろうか。理由は二つ考えられる……韋は、尉討伐によって軍事力を掌握しようと試みていた、また、老齢のために若い楊堅をあなどっていたのではないかと著者は推測している。

 この討伐の翌月楊堅は相国(朝廷大臣の最高位)、隋国公から隋王となり、翌年静帝を廃し隋をあらたにおこし高祖文帝となった。

 「南北朝易姓革命の時代である」。

 王朝交代はスムーズに行われたが、新天子は正統性確立のために前王朝をどうにかしなければならなかった。彼らがやったことは前王室の皆殺しである。文帝も例外でなく、北周王朝の男子を全員殺害した。彼は猜疑心が深く、残忍で冷酷な人間だった。

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 文帝はさらに南宋を亡ぼし中国全土を統一する。文帝には息子が五人いたが、家庭教育の欠陥のためか、五人とも不良分子に育つ。長男の皇太子は乱行がたたり、次男によって廃嫡される。この次男がのちの煬帝だが、巧みに清廉潔白の人格を装い父文帝および母の独孤皇后を欺いた。三男は好色のため妻に毒殺され、四男は乱行のため文帝によって庶民に降格された。

 君主制の安定には、皇太子の教育が重大な要素を占めるが、南北朝や隋の歴史を見る限りとてもうまくいかなかったようにおもえる。民主主義の場合は普通教育が、君主制の場合は王子の教育が重要である。文帝は家族を溺愛する一方、親戚とはたがいに憎みあい抗争を繰り広げた。彼の子供たちは父の姿を見て成長したのであり、兄弟どうしが殺しあうのは当然の結果だったともいえる。

 文帝は晩年になると人間不信に陥り、ノイローゼとなった。小役人にわざと賄賂を贈り、受け取ったものを処罰するなどの行動を繰り返した。文帝が死ぬとあらたに皇太子となった次男楊広が天子煬帝となった。煬帝は即座に長男(廃太子)を殺し、モンゴル国境の鎮守にいた末っ子の蜂起を制圧して庶民に降格させた。

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 中国は西高東低であり、大抵の川は西から東に流れる。並行する川をつなぐためには運河をつくる必要があった。煬帝は、文帝時代に蓄えられた国庫をつかい大工事をおこなった。こうしてできたのが「かんこう」、通済渠、永済渠である。煬帝が毎年都を移し運河を通って行幸を繰り返したので、下級役人や庶民の生活は困窮した。

 南北朝時代北周北斉突厥朝貢していた。隋が全土統一したとき、突厥は東突厥と西突厥に分裂していた。文帝は東突厥を支援したので、東突厥は恩を感じて煬帝のときには隋に朝貢をおこない、侵入した契丹族を隋・東突厥の共同で打ち破った。東突厥のハン、啓民可汗と煬帝は親しくし、長城修復の作業には東突厥人がかりだされた。

 文帝、煬帝は周辺諸国にたいし朝貢を要求した。聖徳太子の外交手腕は、従属を認めながらも自国(日本)の要求をも認めさせようとする、当時の国力にしては上出来なものだった、と著者は評する。

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 高句麗は文帝の朝貢要求にしたがわず独立国の地位を維持しようとした。隋の軍閥の圧力に屈し、文帝は高句麗に三十万の大軍を派遣した。

 ――どこの国でも上級の職業軍人は戦争をしたがるものである。戦争をして勝つのでなければ、名声も上がらず、賞賜(しょうし)も貰えず、官位も容易に進まない。……(軍人たちは)仮想敵国は高句麗ということにして、事あれかしと待ちかまえていた。

 ところが文帝の派遣軍は、陸軍は疫病に、海軍は暴風雨にさいなまれ高句麗に到達することなく壊滅した。生き残ったのは十人に一、二人というありさまで、両国は和解した。

 煬帝はふたたび高句麗征服に乗り出すが、二回とも大失敗し、その二回目の最中に後方の兵站基地総司令、楊玄感が反乱をおこした。

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 この反乱は不発におわり、関係者はみな処刑された。煬帝は悪いものは片っ端から殺せばいいという結論にいたった。反乱に巻き込まれただけだから微罪ですむだろうとたかをくくった役人は矢の集中掃射をあびて死んだ。

 ――ちょっとでも正直なことをしようとすると、いちばんひどい目にあって損をする世の中であることを、彼が知らなかったのが悪いのだ。

 反乱が終わった後、全国的な反乱・反政府暴動が続発する。盗賊や新興宗教、知識階級、軍閥、貴族など多様な集団が中国全土を荒らしまわった。さらに東突厥が突如侵入し煬帝は篭城する。このとき煬帝を助けたのが李世民である。篭城戦の功臣たちにたいして、煬帝は賞与を与えなかったため、さらに不満が蓄積した。以降、天子のたのみにしていた軍隊が最大の危険分子となった。

 ――どうも凡庸な人間ほど、うぬぼれと虚栄心が強いらしい……臆病な人間はまた猜疑心の強いものである。

 煬帝は身の危険を感じて江都(揚州)へ遷都し、またそこで奢侈をくりひろげる。まもなく楊玄感の反乱に失敗してのち潜伏中だった李密が周辺貴族や武将を糾合して洛陽をのっとる。隋軍が派遣されるがたがいに拮抗して情勢は動かなかった。このあいだに長城警備隊の李淵が進軍して長安を占領する。続いて江都にて宇文化及・宇文智及の兄弟がクーデターをおこし、煬帝が惨殺される。宇文兄弟はさらに隋王室の一族を皆殺しにし、あらたに据という国をたてる。しかしこれは反乱軍トウ建徳によって捕らえられ、斬首される。

 隋は制度の側面から隋唐と並べられて考察されることが多いが、人物の側面から見れば明らかに南北朝時代に属していた。煬帝は古いタイプの暴君であり、また古い方法によって殺された。

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 江都の王世充と洛陽の李密が争っているあいだに、長安の李淵はあらたに唐をおこして高祖となった。すかさず王世充と李密が李淵討伐をはじめたが、高祖の次男李世民の勲功によって利密は処刑、王世充も捕虜となる(その後勝手に殺されてしまう)。

 高祖と太祖李世民がやがて大唐帝国を築くことになる。

 

隋の煬帝 (中公文庫BIBLIO)

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