うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『エセー』モンテーニュ

 ギリシア・ローマの古典からモンテーニュの時代の出来事を例にあげることが多い。こうした古典や、自身の経験を参考に、人間の性質をひとつひとつあげていく。

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 彼の死の恐れ方は尋常ではない。おそらく現在よりも死亡率が高く平均寿命も低かったからだろうが、たえず死を意識する人間、まわりに意識させる人間はうっとうしいことこのうえない。病人をみればこのことがわかる。

 ――十五年か十六年をそこで費やしたのちに学校からもどってくる生徒を見たまえ。これほどまで実際の役にたつのにむいてないものもあるまい。あなたがたがそこに認める、前とはちがったことといえば、彼のラテン語とギリシア語が、彼を家から出ていったときよりいっそう高慢に、いっそう思いあがりにしたことだけなのだ。彼はそこから満ちた魂を持って帰るべきだったのに、ふくらませた魂をしか持って帰らない。

 頭でっかちを批判し、肉体にも一定の評価をあたえている点、学識よりも人格や良心をおもんじている点に納得できる。

 ――ところで、労働に耐える習慣というのは、苦痛に耐える習慣のことです……子供を運動の苦しさ、きびしさに慣れさせ、脱臼や、せん痛や、焼灼や、投獄や、拷問の苦しさ、きびしさに耐えるよう仕立ててやらなければなりません。

 社会状況によっては、いかなる人間も投獄や拷問といった理不尽な苦痛から無縁ではない。

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 ひとつの行動からその人間の性質を推測するのはあやまりである。人間の精神はうつろいやすく、さだまらない。

 ――われわれは皆断片からできていて、あまりにかたちをなさない多様な組成をしているので、一片一片が瞬間ごとにおのおのべつの動きをする。われわれとわれわれ自身とのあいだには、われわれと他人とのあいだにあるのと同じくらいの相違がある。

 <ひとりの同じ人間を演ずるのは大変なことだと思え>

 人間は一枚岩ではなく、自身も自身の性質をコントロールすることができない。

 

 野心や欲望が徳のある行為を導くこともある。「ひとは虚栄によって謙虚であることも可能だ」。

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 モンテーニュは結果主義ではなく、過程を重視する。たとえばかれは、人間の知恵をはかるものは結果ではない、とかんがえる。結果は偶然に左右されやすいものだからだ。われわれの行動はたいてい偶然に左右されている、とかれはかんがえる。

 だから、高い地位にいるものがみな賢いとはかぎらず、むしろその逆といってもいいのだという。

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 モンテーニュだけでなく、彼の引用する古代ローマ、ギリシアの文人のことばの力もおどろくべきものである。ホラティウスいわく「欠点を避けることは、ひとを欠陥へと導く」。

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 「鉄の時代よりももっとわるい時代。その罪悪にたいしては、自然さえも名前をつけられず、どのような金属にもたとえられない時代」「まったく、そこでは正義と不正義が逆になっている」「彼らは武装して土地を耕作し、喜んで新しい戦利品を山と積んで運び、略奪品で生活する」これらはすべて古代ローマの詩である。

 

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 宗教戦争のしたで生きていたためか、政治にかんしてモンテーニュはきわめて保守的である。徹底的な現状維持を主張し、不満をかこち改新をのぞむよりも、下をみて満足せよという。ソロンいわく、

 ――もしひとが不幸というものを全部集めて山に積みあげたとしても、その不幸の山をほかの全部の人間たちと正しく分割し、自分に割りあてられた部分を引き取っていくよりは、自分の本来持っている不幸を持って帰るほうを選択しない者は誰ひとりいない。

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 老年についての項はいまいちよくわからない。しかし、人に依存せず死ぬときは潔く死ねという部分にはまったく同意する。

 人間は厳しい道徳や掟にはしたがうことができない。

 「掟や戒律には勝手にその道をたどらせておき、自分たちは自分の道を行く。それは、単に品行の乱れによってだけでなく、反対をむいた考えや判断を抱いてのうえであることも多い」。

 ――どのように正しい人間でも、彼の行動と思想のすべてを法律に照らして吟味した場合、生涯のあいだに、首を吊られても不思議はないことが十回ないような人はいはしない。

 一方で、法を犯していなくともクズとしかいえないような人間もいる、と彼はいう。

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 われわれの判断力はたよりなく、たいてい軽率である。先入見にとらわれやすく、おなじことがらをとってみても百、千ものとらえかたがある。これは同一人物であってもいえることだ。モンテーニュは理性のつぎに経験をおくが、それでも経験はかろんじてはならないとする。

 ――ものごとの姿のなかには、相違と多様ということ以上に普遍的な性質は何もない。

 「大きな問題で正義をつらぬこうとすれば、小さな問題で不正をおかさなければならなくなる」、「それ自身で正しいものは何もない。習慣と掟が正義を作る」、これはキュレネ派の主張で、ホッブズにもつらなる。

 法律の話題がつづくが、法律こそは経験によってつくられ、正義となった掟である。「法律が信用されるのは、それが正しいからではなく、それが法律だからなのだ。それが法律の権威の不思議な根拠だ。ほかの根拠は全然ありはしない」。

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 彼は持病の尿結石を思考のあしがかりとして、精神と肉体の調和をとく。肉体と精神はつながっているのであって、どちらか一方だけにかたむくのは間違いである。禁欲的な哲学者たち、思想家たちをさして、「こういう教えを守る連中は、自分たちの妻の処女を破るときに、哲学の勉強以上にはりきりもせず、元気も液も出さないようにすればいいだろう」という。

 「われわれの学問のうちでも、もっとも高くのぼったものが、もっとも地上的な、低俗なものであるようにわたしにはおもわれる」。地に足の着いていない思考は、人間の低俗な性質のひとつである。

 「自分の存在を正しく楽しむことができるということこそ、これ以上はない、神のようなといってもいいほどの、完成の状態なのだ」。

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 神偏重主義にたいする人間中心主義(ヒューマニズム)の時代、つまりルネサンスを代表する作品だが、ほかの点からもためになることばは多い。極端さや偏りにたいしてモンテーニュは警戒を抱いていたようだ。

 

エセー〈1〉人間とはなにか (中公クラシックス)

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