うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『ヴォルガ・ドイツ人』ゲルマン プレーヴェ

 ヴォルガ地方に居住するドイツ人を、ヴォルガ・ドイツ人と呼ぶ。本書は彼らヴォルガ・ドイツ人の歴史と文化を理解するための助けとなるべく書かれた。

 

 ――そもそも、ヴォルガ・ドイツ人とは何者か。祖先がいつ祖国ドイツを後にして見知らぬ遠い僻地へやって来たのか。ロシアのどこで、そしてどのように暮らしてきたのか(p17)。

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 第一章 ロシアのドイツ人

 ロシアとドイツ人との交流は十世紀にまでさかのぼる。以降、ドイツ人はロシア各地に移住し、ドイツ人村がつくられた。ピョートル一世の時代には、ドイツ人は、西欧文明の保持者、軍事経験者として、帝国の建設に大きな貢献を果たした。

 「数世紀の間に、広大なロシア帝国の各地にいくつかのドイツ人集団が形成された(p22)」が、各集団の交流は限定されていた。

 ロシア・ドイツ人を社会的に分類すると、十八世紀以降の入植者、それ以前からの都市住民、貴族の三種となる。宗教的には、ルター派カトリック、正教、メノー派の4つに大別される。地域的には、バルト海沿岸、ペテルブルクとモスクワ、ヴォルガ地方、新ロシア、ザカフカスカフカス山脈以南)、ヴォルィニ(ウクライナ北西部)の6地域に分けられる。それぞれの地域集団は独自の出自をもっていた。

 ――このように、一口にロシアのドイツ人と言っても、単一の民族集団であったことは一度もない(p25)。

 ロシア・ドイツ人をひとつにまとめたのは、一九四一年の強制移住という悲劇である。

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 第二章 ヴォルガ地方におけるドイツ人入植地の形成

 ロシアは絶えず領土拡大をつづけたため、新しく手に入れた土地を開拓地にする人間を必要とした。そこで期待されたのが外国人入植者である。

 一七六二年、エカチェリーナ二世は布告を発し、「当時ヨーロッパで盛んだった外国人誘致による国民増加策(p33)」を開始した。皇帝は、アメリカやプロイセンオーストリアでの入植の成功を参考にした。

 その後の三年間で、約三万人のドイツ人がサラトフ地方に送られた。ロシア政府は移住者にたいする手当てや免税などで保障をおこなった。しかし、当初、農地経営はうまくいかなかった。

 その理由は以下のとおりである……入植者がドイツ各地からの寄せ集めで一体感に欠ける、手工業者など、非農民の移住者も多かった、気候に不慣れだった。

 一七七四年のプガチョフの反乱の際には略奪の被害にあい、さらに活発化した遊牧民族カザフ人にも襲撃される。

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 第三章 十九世紀前半のヴォルガ・ドイツ人

 

 エカチェリーナ二世につづくパーヴェル一世、アレクサンドル一世、ニコライ一世の統治を経て、入植者たちの社会は軌道にのっていく。制約はあるものの、「入植者の自治と一定の自立性はたしかに保証されていた(p67)」。

 人口増加にしたがって、入植者の生業は製粉業、鋳物、織物業などにも広がる。

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 第四章 ロシアの「大改革」とヴォルガ・ドイツ人

 改革の一環として、一八七一年、アレクサンドル二世の勅令により、ドイツ人入植者はロシア人農民となり、さまざまな特権・優遇措置は廃止される。教育をはじめとした社会制度の整備がすすめられ、サラトフなどの都市にもドイツ人は増える。ドイツ文化とロシア文化の交流がおこなわれ、サラトフはヴォルガ地方の一大工業都市となる。

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 第五章 一九一四年から一九二二年のヴォルガ・ドイツ人

 第一次大戦の勃発とともにロシア国内の排外主義(ショービニズム)や反独感情が高まり、ドイツ・ロシア人は資産凍結やドイツ語使用禁止等の憂き目に会う。応召をうけたドイツ人は捕虜同然の待遇をうける。この過程で従軍ドイツ人は革命思想に傾倒していく。

 革命とともにドイツ人たちは民族・政治組織「ヴォルガ・ドイツ人」を結成、「自治の復活、ドイツ人入植者に対するツァーリ政府の差別法令の全廃、農業問題の解決、民族の言語・教育・文化の復興を目標に掲げ」(p103)た。

 ボリシェヴィキがクーデターによって政権を掌握すると、「ヴォルガ・ドイツ人」はブルジョワ民族組織として告発され、活動停止に追い込まれた。かわって、ドイツ人ボリシェヴィキが入植地を管理した。

 内戦期にはボリシェヴィキ側につき、赤軍の「自給」という名の略奪や、白軍の略奪に備えた。内戦期には大規模な飢饉にもまた耐えなければならなかった。

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 第六章 ヴォルガ川流域のドイツ人自治領

 一九二四年、ヴォルガ・ドイツ人自治州は自治共和国となる。ロシア全土と同じくNEPが施行され、工業生産や他国との貿易は伸びを見せる。しかし、これもスターリンの台頭によっておわる。

 ――党とソ連の独裁支配を確立したスターリンは、一九二〇年代末にネップを打ち切り、短期間で国内に「社会主義」を定着させる冒険主義的な強権手法に回帰した(p134-135)。

 農村を解体しコルホーズに再構成する農業集団化が強行されたが、自治共和国でも農民の反抗、蜂起が相次いだため、緩和された。コルホーズに加盟する世帯数は、スターリンが強制をやめたあと激減した。指令経済による工業化も進められ、自治共和国の都市もわずかながら発展した。それでも、規模は田舎町とそう変わらなかった。政治的には、党およびロシア人が実質的な支配権をもち、ソヴィエトは名ばかりの存在となった。

 三〇年代の「文化革命」は教育制度にも及び、革命・内戦・飢饉の混乱期に比べ識字率は増加したものの、ドイツ人の高等教育への道は制限された。また、党中央の民族政策に基づく同化教育がおこなわれた。さまざまな文化、教会もまた当局の弾圧をこうむった。

 ヒトラーが政権をとると、ヴォルガ・ドイツ人たちはソ連の反ファシズムキャンペーンや政策に翻弄される。

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 第七章 戦禍のなかで

 一九四一年八月二六日、党中央の指令により、ヴォルガ・ドイツ人はシベリア、カザフスタンに強制移住されることが決定した。

 ――……大祖国戦争の時期に行われた民族強制移住のうち最大規模の作戦である。ヴォルガ・ドイツ人は第二の故郷を追われ、その多くは二度とこの地に戻ることはなかった(p181)。

 移住させられたドイツ人は労働軍に編入され、囚人と変わらぬ待遇で強制労働に従事させられた。この強制労働で、二割のドイツ人が死亡したとされる。一九四六年、戦争がおわり、労働部隊、労働大隊が解散すると、ヴォルガ・ドイツ人はウラル、ヨーロッパ・ロシア北部、東シベリア、極東、中央アジアなどへ拡散させられた。

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 第八章 ヴォルガ・ドイツ人の戦後

 戦後も特別入植制度が継続され、さまざまな民族差別、市民的権利の剥奪がつづいた。フルシチョフ以降、ゆっくりと規制緩和が進められる。一九五八年以降、西ドイツへの出国がはじまる。一方、ドイツ人自治領構想は党によってつぶされてしまう。

 ソヴィエトが崩壊し、ロシア政府に変わっても、ドイツ人の状況は好転しなかった。エリツィンはドイツ人自治領構想を否定した。このためドイツ人の出国が相次いだ。一九九二年から一九九八年までに一二〇万人以上がロシアを去った。

 自治領建設の見通しがないため、ヴォルガにはドイツ人の姿はほとんど見られない。また、現在ヴォルガに居住するドイツ人はロシアとの同化が進んでおり、ドイツ語をしゃべることができないものが大半である。

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 結論

 ヴォルガ・ドイツ人の記憶は、「ロシアとドイツの両国に、ロシア人とドイツ人の両者に、共通の歴史の一ページが存在したことを重い起こさせるよすがになる」(p233)。

 

ヴォルガ・ドイツ人―知られざるロシアの歴史

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