愛欲、欲情、快楽、財産に執着すべからず、と何度も説教する。そもそもこの世は不浄である。家族や子などのしがらみ、怒り、怨念、仇討ちの感情、これも、消し去るべきという。
われわれの生活のほぼすべてを占めるこうした俗事を、仏教は否定する。しかし一方で、つねに勉励しなければならない、と説く。怠けず、勤勉であらねばならない。一刻たりとも無駄にしてはならない。善をなせ、悪を避けろ。
果実がいつ落ちるかわからないのと同じく、人間はいつ死ぬかわからない。それでも、怠けず、はげまなければならない。ブッダの説教には、自殺や無気力への誘いはかけらも見当たらない。
また、自己を律するのはもっとも難しいがゆえに、自己を自らの支配者とせよ、と主張する。自分をコントロールするのは自分であって、ほかの何物でもない。この考えは、自分は「生かされている」とする、同じく仏教の考えとは矛盾するとおもうがどうなのか。
善をなせ、徳を積め、悪を避けろ、怠けずはげめ、というが、なにが善で悪かが、具体的に示されているわけではない。
口でよいことをいうよりも、実践することが大事である。
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――つとめ励むのは不死の境地である。怠りなまけるのは死の足跡である。つとめ励む人人は死ぬことが無い。怠りなまける人人は、つねに死んでいる。
邪な考えにそまって、ふわふわと生活するな。悪い人間や不浄な人間と一緒にいるよりひとりでいろ。
睡眠、倦怠、怠惰、これらは修行の妨げである。
――さあ、奮い立て。外へ出て行け。仏の御教えにつとめよ。死王の軍勢を追い払え。
――この世では自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか?
いかなる状況においても、愚者より賢者のほうがのぞましい。
――(友となって)同情してくれる愚者よりも、敵である賢者のほうがすぐれている。同情してくれる愚者は、ひとを地獄にひきずりおろす。
自分をおろかとわかっている愚者は賢者である。賢者だとおもっている愚者は愚者である。「君子危うきに近寄らず」と同じように、おろかものには近づいてはならない。
――愚かな者を見るな。そのことばを聞くな。またかれとともに住むな。愚人らとともに住むのは、まったくつらいことである。
卑しい性質を増大させてはならない。下劣さになじんではならない。こうした下劣で卑しい人間は、この世で生活しやすい。
たびたび言及される「見る/見ない」とはどういうことか。
――森は楽しい。世の人びとはここで楽しまないが、情欲のない人びとはここで楽しむであろう。かれらは快楽を求めないからである。
――ただ謗られるだけの人、またはただ褒められるだけの人は、過去にもいなかったし、未来にもいないであろう、また現在にもいない。
情欲、憎しみ、迷妄、高慢、貪り、愛執は心を汚すものである。