うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『日露戦争史』横手慎二

 前段階、戦争の経過、その後の影響、また海外の史家や世界史的な視点からもふくめて、日露戦争を見直す。

  ***

 十九世紀末は各地で植民地戦争が頻発した時代である。アフリカにおける植民地戦争や、米西戦争、中国の分割がこれにあたる。こうした状況の中で、日露対立はいかにして生まれたのだろうか。

 日清戦争に勝利した日本は下関条約によって遼東半島を得るが、独仏露の三国干渉によって返還を余儀なくされる。一方のロシアは、皇太子と蔵相ヴィッテが主導となってシベリア鉄道の建設を進めていた。人口稠密となったヨーロッパ・ロシアからシベリアへの移住を容易にするためである。鉄道建設のために、ロシアは清国との友好関係を築き、建設の際の援助協定を結んだ。ところが日本にとっては、これがロシアの南下政策の現実化、つまり、朝鮮および満州進出のための布石にみえたのである。ロシア国内でも、満州を占領せよという声が持ち上がっていた。義和団事件の発生までに、山県有朋の意見書に見られるような見解……露国への不信、対立やむなし、が大勢を占めるようになった。

 日清戦争後から、日露両軍は早くも朝鮮半島の測量をはじめていた。それぞれ朝鮮半島の地図、地形、港湾、道路状況などを記録し地誌としてまとめた。植民地戦争と異なり、士気と兵器の互角な戦争においては、いかに有利な地点に軍事力を輸送・結集するかが勝利の鍵となる。

 ロシアの重要拠点はウラジヴォストークと旅順だった。ウラジヴォストークと異なり、清国から租借した旅順は不凍港である。しかし、入り口が狭く、内海から外海に出るのに一隻ずつゆっくり進まなければならないという弱点を抱えていた。また、旅順は鉄道の終点であるハルピンから一〇〇〇キロ弱離れていた。戦争時には、ロシアの太平洋艦隊はウラジヴォストークと旅順に分散して配置されたが、日本海軍はこれを個別撃破することに成功した。

 一九〇一年、「タイムズ」紙は、清露協定締結についての記事を掲載した。この報道は、ロシアの進出に危機感を抱く北京特派員モリソンによるものだった。モリソンは、協定によってロシアの満州における特殊権益が確立されるだろうと警告を発した。実際には、この協定はヴィッテの主導する経済的利益のために結ばれたものだった。

 記事は英国のみならず日本にも大きな影響を与えた。日本国内では、朝鮮半島を中立国としてロシアとの和解を図りつつ、共通の危機感を抱く英国と同盟を結んでロシアに対抗すべきである、という方針が伊藤、山縣、桂首相らによって考案されていた。一九〇二年、日英同盟が締結される。日英同盟は、日英どちらかが交戦状態になり、さらに敵国に第三国が加わったときのみ、相互援助がおこなわれるという取り決めだった。ロシア国内ではヴィッテが失脚し、ニコライ二世が東方進出派の山師ベゾブラソフを重用する。そして、ロシア軍の満州撤退が撤回されると、日本の態度は強硬になり、軍部、外務省のなかには日露対決は不可避であるとの見方が支配的になる。

 ニコライ二世の布告によって、外相ラムズドルフの下に極東太守府が置かれ、海軍提督アレクセーエフがその長となる。アレクセーエフは日本の軍事力を過小評価しており、このため対日政策は強硬となった。彼らは、日本との戦争を植民地戦争になると予想していた。この見方に否定的だったクロパトキン陸相は、政治的影響力を失っていた。

 日本の政治指導部は、「満州におけるロシアの優位を事実上認める代わりに、韓国と満州の境界近くまで日本の影響力を及ぼす」という満韓交換論に基づき、引き続きロシアと交渉を続けたが、前述の理由からロシアはまともに取り合わなかった。外交部の尽力の一方、早期開戦派の陸軍参謀総長児玉源太郎司令官大山巌らは戦争準備を進めた。海相山本権兵衛は、開戦にむけて東郷平八郎連合艦隊司令長官に任命する。一九〇四年、外交交渉は中断された。

 日露対立は、相互が自国の安全を増大させるために不安が生じるというセキュリティ・ジレンマの状況に陥ったのである。

 2月6日の国交断絶から10日の宣戦布告までのあいだに、日本軍艦隊は太平洋艦隊を攻撃し、旅順港に閉じ込めてしまった。ロシアでは不意打ちとして非難された。

 日本軍は続々と朝鮮半島に上陸し、進撃をはじめた。緒戦は日本軍の連勝で、ロシアは恐慌・混乱状態となった。日本国内は勝利に湧き、挙国一致の空気がつくられた。しかし、旅順、遼陽の戦闘は激しい消耗戦で、両軍とも二万前後の戦死者を出した。日露双方とも弾薬が不足したため、工場の生産力増大、海外の軍需企業からの発注をおこなった。経済規模の小さい日本では、このときすでに総力戦の兆候があらわれていた、と大江志乃夫は指摘する。

 八月、太平洋艦隊は旅順からウラジヴォストクへ向かおうとするが、連合艦隊によって阻止される(黄海海戦)。ロシアは太平洋艦隊救援のため、バルト艦隊およびチリ、アルゼンチンから買った戦艦をアフリカ喜望峰を経由して太平洋に向かわせることを決定した。到着予定は一九〇五年の三月になると予想された。八月、旅順港を攻撃する日本軍をロシア軍が破ると、長期にわたる要塞戦がはじまった。要塞は堅固であり、日本陸軍は苦戦を強いられた。乃木率いる第三軍団は旅順港を見下ろす二〇三高地に目標を集中した。結果、制圧に成功し、高地からの砲撃によって港に留まっていた太平洋艦隊のほぼすべてを撃沈した。一九〇五年一月一日、要塞司令官ステッセルは降伏の申し出を伝え、翌二日、水師営で降伏文書の調印がなされた。

 ――……二月の開戦以来の旅順の攻防で、ロシア側では行方不明者を含めて三万一二九五人が死傷……対応する日本軍の死傷者数は、約一〇万人だったとしている。旅順の攻防戦は、まさに大消耗戦としての日露戦争の姿を凝縮して示していた。

 一九〇五年一月末、ロシア軍は反撃をおこなうが失敗する。ロシア国内では、戦況の悪化につれて反戦派、反体制派の動きが活発になり、デモ隊に対して警官隊が発砲する「血の日曜日」事件などがおこった。三月、ロシア軍は二十九万、日本軍は二十五万の兵力をもって奉天会戦がおこなわれる。ロシア軍の士気は低く、また日本軍を過大評価し慎重になっていたこともあって、まもなく撤退してしまった。この際、日本軍の捕虜厚遇のうわさから、二万人近いロシア軍捕虜を得た。

 五月、対馬海峡を通過しようとするバルト艦隊と連合艦隊との決戦がおこなわれた。この日本海海戦で東郷は敵主力艦隊を沈没させ、制海権を奪った。勝敗が決すると、ルーズベルト大統領の仲介で講和条約締結が進められた。しかしなかなか取り決めがまとまらず、休戦協定は九月、講和条約の直前にまでずれ込んだ。

 九月、アメリカのポーツマスで予備会議がひらかれる。日本側は韓国における日本の権益の保障、両軍の満州からの撤退、遼東半島鉄道の日本への譲渡を絶対的必要条件として要求した。

 ――……日本の指導部は、講和条約で何よりもロシアに対する安全の確保を目指していたといえよう。……明らかに、これら(賠償金と樺太)の要求は戦争の実態を知らない人々が求めていたもので……心の内では獲得が容易でないことをよく認識していたのである。

 小村とヴィッテとの間にポーツマス条約が締結され、日露戦争は終わる。日本は南樺太を得たが、賠償金を期待していた勢力によって日比谷焼き討ち事件がおこり、戒厳令が敷かれた。以降、普通選挙、政党政治の導入を求める勢力と、これに反対する軍部の対立が長く続くことになる。

 ロシアは革命まで日本との友好関係を維持し、英国は日本との同盟をさらに強化した。日露戦争は勢力均衡図を変化させた。この変化は、英露と独墺との対立、そして第一次世界大戦にまで至る。

 

日露戦争史 - 20世紀最初の大国間戦争 (中公新書)

日露戦争史 - 20世紀最初の大国間戦争 (中公新書)