うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『下克上の時代』永原慶二

 本書が扱うのは一四一六年、上杉禅秀の乱から一四八五年、山城の国一揆まで、将軍でいえば足利義持、義教、善政の時代である。室町幕府が下克上の機運のなかで崩壊していくさまを描くのが、この巻の目指すところである。

 『日本の歴史』シリーズは古本屋で投売りされているが、読まないのはもったいない。

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 関東公方足利持氏に反対する上杉禅秀らが勢力を糾合して反乱をおこすが、これは鎮圧される。持氏は禅秀と結んだ関東の豪族や一揆(豪族や武士による連盟)を片っ端から掃討しようとしたため、さらに反持氏の輪を広げてしまう。将軍義持が死ぬと、後継者をめぐって再び騒動がもちあがる。関東公方と将軍は、義満の代以来宿敵の関係にあった。持氏は自分が将軍候補から除外されたことに憤り、反乱をおこすが鎮圧される(永享の乱)。一四四〇年、下総の結城氏朝は、持氏の遺子、安王と春王を擁して反乱をおこす。この結城合戦も鎮圧される。結果、関東を掌握したのは持氏の配下、上杉憲実だった。

 禅秀から結城合戦までの関東動乱により、室町幕府の統治の一角は崩壊した。結城合戦の一年後、一四四一年、赤松満祐が自邸の猿楽鑑賞会で将軍義教らを斬り殺す(嘉吉の乱)。中央の武将たちはあっけにとられ、その間に満祐は領国播磨に逃れてしまった。これを討伐した山名持豊が勢力を拡大する。

 そもそも、殺された将軍義教は、自分の同性愛の相手に所領を与えたり、諸国の守護の後継問題に口出ししたり、過酷な罰を与えるなど、「万人恐怖」の苛政を敷いたので、その死は自業自得ともいえる。比叡山延暦寺も義教の不興を買い焼き討ちされた。このことには緘口令が敷かれ、口にした商人たちが斬首される事件もあった。

 義教の暴政にみられるように、将軍は守護大名たちに権力を制限されながらも、まだ大きな軍事力を有していた。いっぽう守護大名たちは、領国内の国人すなわち在地領主の脅威に絶えずさらされていた。赤松満祐が義教暗殺後まもなく亡びたのも、領国の国人が満祐を見限ったからである。国人は実質、軍事力の担い手だった。

 政治的混乱に乗じて、正長の土一揆、播磨の土一揆、嘉吉の一揆などが相次いで起こる。正長の土一揆は、近江の坂本・大津からはじまった。馬借とよばれる、運送業に従事する下層民の蜂起から、京都や奈良の広範囲に広まった。播磨の土一揆はその翌年におこった。担い手は播磨の国人であり、守護大名赤松氏は彼らの要求に屈した。嘉吉の乱とほぼ同時発生した嘉吉の土一揆は圧倒的な規模をもち、京都は農民によって「四角八方から」囲まれた。このとき、幕府は徳政令を出さざるを得なくなった。

 室町時代は、国人および農民の独立心や反抗心が高まった時期だったといえる。

 近畿の中央地帯においては、在地領主の不在から惣村が強い力をもつようになり、自検断をおこなうようになった。これは納税などの際に領主が立ち入ることを拒否するもので、惣の自治を示すものである。さらに、有力農民のなかには「侍分」「侍名字」という名字をもつ層もあらわれた。彼らは江戸末期まで非公然に名字を名乗り続けた。侍分は年貢の滞納や実力による納税拒否で、たびたび領主の寺社の手を焼いたという記録が残されている。

 この時代には、有徳人とよばれる富裕層や商人が台頭した。幕府の国庫には備えがなく、有徳人からの徴収で財政をまかなわなければならなかった。有徳人とともに、手工業者の組合である座も、近畿を中心に発展した。座や、陸運海運の整備などは、京都、奈良といった大都市周辺に限られた。商業の発達にあわせて、山賊、海賊も出現した。

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 南北朝の時代、大陸では朱元璋が明を建国する(一三六八年)。朱元璋あらため太祖洪武帝、またつぎの永楽帝は、積極的な外征政策を進めたが、貿易については、一種の鎖国に近い海禁政策をとった。このため周辺諸国は密貿易や中継貿易、南蛮との貿易を発展させた。

 貿易の盛り上がりとともに海賊も増えたが、この時代の海賊は水軍兵力を兼ねた豪族・国人のことを指す。彼らは通行する船にたいし関銭を要求したり、末端の構成員のなかには実際に海賊行為を働くこともあった。密貿易にたいし義満は勘合貿易をおこなうが、あくまで一部にすぎない。

 義教の代に遣明船に乗った楠葉西忍のような、有徳人、豪商、九州・中国地方の豪族が貿易の担い手だった。李氏朝鮮からは『高麗大蔵経』や木綿を輸入した。琉球もまた一大貿易地だった。

 一四六一年、寛正の大飢饉がおこり、各地は壊滅的な打撃をうける。将軍足利義政が庭園づくりや観劇で財政を濫費したことも、飢饉にともなう経済の崩壊の一因となった。嘉吉の一揆以降、畿内ではほぼ毎年土一揆がおこった。幕府はこれに対し分一徳政令という略奪的な政策をとった。悪党が京都を跋扈し、身売りや人身売買が横行した。さらに、信濃の小笠原家、加賀の富樫家、三管領の斯波家などで家督争いがもちあがり、将軍家や国人を交えた内戦にまで広がった。この内紛は、将軍家が守護大名の相続争いに口出しできる制度があったためである。

 管領畠山義就と政長の後継者争いは、政長側に細川勝元山名持豊がついて勝利する。ところが一四六五年、足利義政日野富子の子義尚と、養子義視のあいだで内紛がおこる。富子・義尚には山名持豊が、義視には細川勝元がつき、応仁の乱がはじまった。

 細川は東軍、山名は西軍とよばれ、お互い京都に陣取った。緒戦は山名側が有利に進めるが、義政が東軍に組し、また地方の細川方が蜂起をはじめたため、戦況は東軍有利に傾く。しかし、山名の同盟者、西国の大内政弘が水軍をひきつれて京都にやってくると、ふたたび伯仲する。

 まもなく、義視が西軍にくわわり、日野富子が東軍にくわわる。両軍の頭目が入れ替わっても、たたかいは続けられた。細川対山名、日野富子対義視という構図が重要だったのだ。

 応仁の乱にあわせて、地方においても下克上の機運が高まった。代表的な人物は越前の朝倉孝景で、一介の国人から、東軍への寝返りで斯波氏を退けて越前守護に任ぜられた。孝景は合理主義・現世利益重視の、戦国大名の先駆といえる人物だった。守護に任じられると一乗谷に居を構え領国を支配した。当時の貴族たちは孝景を悪党の見本と罵った。

 京都に呼応して各地でも戦争がはじまったが、東軍・西軍という分離はそれほど重要でなかった。「その戦いは中央における山名・細川の争いとほとんど無関係に、国々の内部で国人たちが互いに力をきそい、主家の分裂を利用しつつ自分の力をのばしていく戦いだといってよかった」。

 国人が力を伸ばした理由には、一族本家が分家や庶家を家臣化したこと、また地縁的結合に基づき、地侍や農民を軍事力として組織したことにある。土地を実際に掌握した国人たちが、守護大名荘園領主を没落させたのが、応仁の乱の意義であるといえよう。一四七二年に細川勝元山名宗全の両者が疫病で死亡すると、中央での戦闘はやみ、数年後地方での戦いも停止する。

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 時代の変化になすすべなく、妻の富子や息子の義尚にも反目され、政治的な力を失った義政は東山にひきこもって慈照寺を建てる。東山文化には、禅の要素とともに、浄土教の要素もみられる。

 当時の将軍家にしたがい遊びや技芸をおこなった同朋衆のなかには、時宗門徒が多く含まれていた。時宗とは一遍を開祖とする、農民のなかに深く入り込み踊りをおこなった宗派であり、この過程で芸を磨いたとされる。

 仏教の影響のみならず、能、茶、花などには生活に染み込んだ文化の要素も含まれている。茶、花などは遊びやインテリアの一環として愛好された。地域経済の発展により方言が生まれ、饅頭・ようかん・豆腐・納豆などの禅宗料理が生まれたのもこの時期である。

 貴族や寺社・荘園領主の没落にともない古典主義がひろまり、和学がさかんに学ばれた。和学や、古今集の秘儀を伝授する古今伝授は、当時の僧や学者たちの食い扶持をつなぐために存在したともいえる。彼らは知識や教養を地方の新興権力に切り売りして生活した。儒教の研究もおこなわれたが、抽象的な議論にとどまり、大陸のように現実批判や政策提言をするにまではいたらなかった。

 乱世への不安から、農民たちはしばしば異類異形の踊りをおこなった。これは幕府や寺社に警戒され、取締りをうけた。狂言には、下克上、成上がりを肯定するエネルギーが感じられる。義経記の成立、地蔵信仰もこの時代である。

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 本書では、幕府、守護大名、国人、有徳人、農民と並んで、蓮如のおこした浄土真宗本願寺派……一向宗もまた一大勢力の扱いをうけている。蓮如は貧しい生活にもかかわらず気力体力に満ちた人間であり、近江の堅田衆(湖畔の住民)にむけて開祖親鸞から学んだ浄土真宗の教えを説いていた。これが山門延暦寺の妨害を受けると、越前吉崎に逃れ、新たな拠点とする。

 蓮如は乱世にふさわしい組織人だったと評される。檄文のごとき『御文』を民衆にむかって発し、村々の僧、年寄、長をターゲットに布教をおこなった。村の有力者を引き入れることで村全体が門徒となり、彼らに平等主義的な寄合・講を開かせる。

 

 本寺―末寺道場という中央集権によって資金を集める一方、寄合・講によって民衆に一揆のような連帯を結ばせることで、一向宗は大きな勢力となった。

 蓮如は他宗排撃や現世権力との対立には反対していたが、一向門徒たちはもはや蓮如の手を離れ、加賀の守護代や守護の富樫氏に攻撃を開始していた。一向宗は実質、国人と地侍、農民からなる新興勢力に変質していた。やがて加賀の守護大名富樫政親を敗死させ、新領主となる。

 親鸞の誕生日におこなわれる報恩講は、北陸地方ではいまでもおこなわれるという。

 山城の国一揆応仁の乱後まもなくおこった。京都・奈良の国人たちが畠山家の追放をかかげて蜂起した事件で、これまでの徳政一揆とは異なり、明確な政治目的をもっていた。国人や有徳人をけしかけたのもまた、細川政元だった。

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 室町時代は、中央権力が存在しながらも、その力が弱まり、領主権力の勃興した時代である。領主や下層の力がさらに強まることで、やがて戦国時代になり、分散した力は織田・豊臣政権に収斂されていく。同時代の明朝が、徹底した専制君主制、官僚政治体制を強いていたのとは対照的である。

 著者によれば、室町時代は、「封建領主の自由な成長の時期」であり、「封建社会の黄金時代」だった。

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 業績をみると、とても立派とはいえない義政だが、彼のおこした東山文化がいまでも観光客を集めているのは不思議である。

 狂言について調べたい。

 本書を読むと、既存の社会構造が崩壊し、新興勢力がつぎつぎと押し寄せる、波頭のうねりのようなものを感じる。

 鎌倉には黒、室町には枯れた抹茶色のイメージがある。

 

日本の歴史〈10〉下克上の時代 (中公文庫)

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