うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『信長の戦争』藤本正行

 信長の功績、とくに軍事面での成功や勝利の挿話の大半は、江戸時代に創作されたものである。軍談や軍記物として創作された話が、戦前には軍人の戦史研究に用いられ、戦後も史実として受容されてきた。

 本書は信長、秀吉、家康の三代にわたって仕えた太田牛一の『信長公記』を史料として、とくに軍事面での信長の行動を検証する。太田牛一ははじめ戦闘員として第一線で活躍し、やがて官僚的な仕事に配置換えされた。

 老年にいたるまで『信長公記』をはじめ秀吉の伝記、宮中のスキャンダルの記録など旺盛な執筆活動を続け、また人に頼まれて多くの写本を残した。この写本は丸写しではなく、文の細かい部分、家康、信長に対する敬称、事実関係について改変されているため、どれが決定稿と決めることはできない。

 『信長公記』に描かれている信長は、理想や勇気をもつ一方で、陰険、狡猾、冷酷な面をもち、わがままで、しばしば判断を誤る。また、たびたび実行された大虐殺について、牛一は犠牲者をあわれみながらも、信長を批判することはない。これは彼が信長に仕えていたからというより、運命論者だったことによる。戦乱の時代には、人や物があっけなく滅ぶ。今日の勝者が明日には屍を野にさらすこともまれではない。だから、牛一を含めて、戦国時代の人間は「すべては天道によって定められている」と考えたのである。

 桶狭間を含む信長の戦争についてのフィクションが普及したのは、『甫庵信長記』によるところが大きい。

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 桶狭間の戦いは、実際には今川軍と織田軍の正面衝突だった。今川軍は信長の築いた五つの砦を落とすために大軍を率いて進撃したが、砦とは別に機動力のある信長部隊という障害があった。

 ――……義元には、相対的に価値は低いが明確な第一目標(付け城)と、価値こそ高いが不明確な第二目標(信長の主力)とがあった。……信長が主力を率いて介入してくると、すでに侵攻中の大作戦を敵前で修正しなければならず、事態はいささかやっかいなことになる。そして現実に、信長はまさしくこの時点で介入してきた。今川軍はこれに気づいたものの、十分な対応ができぬままに逆襲を受けて惨敗したのである。

 信長の第一目標は砦であり、そもそも義元の位置も把握していなかった。一方、義元はいったん後退して信長を迎え撃とうとした。信長の勝因には幸運の要素があり、今川方は常識と慎重さに基づいて行動したにもかかわらずそれが裏目に出た。

 桶狭間神話は日中・太平洋戦争でも精神的支柱でありつづけ、莫大なミス、失敗をもたらした。彼らは織田軍の奇襲戦法に目を奪われ、今川の大軍がなぜ負けたのかになんの関心も抱かなかった。

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 国家から兵力がいくらでも補充される職業軍人と異なり、戦国大名は私費で軍隊をつくらねばならなかった。だから、味方の死骸で山を築くような消耗戦は不可能だった。戦国大名はなるべく兵の損害を出さない戦い方を心がけ、このため武辺(武力)と並んで調略・謀略を重視した。調略とは敵の内応をはかることをいう。また、火付け、刈田、付け城によって相手の弱体化を狙い、圧力をかけることもさかんにおこなわれた。

 ――……状況不利を悟った者は、たいていは降伏するか逃亡する。異国で異民族と戦っているわけではないから、逃亡先はいくらでもあった。……下手に敗者を追い詰めて、死に物狂いで抵抗されるのは得策ではないからで、かえって敗者を自陣営に吸収することに努めている。信長や家康の軍隊が、雪だるま式にふくれあがっていったのは、そのためである。

 信長は機動力をとくに重んじ、調略によって敵の取り込みがすむとそれを感知されぬうちに部隊を出陣させた。

 一五七〇年に浅井・朝倉軍と織田・徳川軍とのあいだでおこなわれた姉川合戦は、損耗の激しい正面衝突であり、戦国時代でも大変珍しい戦闘である。つづいて信玄が三河に進出し三方ヶ原の戦いで徳川軍は惨敗するが、翌年信玄の病死によって危機は回避される。いっぽう、浅井・朝倉と石山本願寺、長嶋一揆が共謀して信長に叛旗を翻したため、長嶋の合戦がはじまった。

 一五七四年、数年間我慢してきた信長は長嶋一揆(現・三重県桑名市)の鎮圧に向かう。攻城戦は損害が激しいため戦国大名には嫌われていた。信長もたいていの城は調略と兵糧攻めによって落としている。しかし、浅井・朝倉軍、志賀の陣のあいだ、「煮え湯を飲まされてきた」長嶋一揆にたいしては、徹底的な殲滅をおこなった。意表をつかれた一揆勢は長期戦の用意ができておらず、兵糧攻めによって餓死者を出し、死体を食って生きのびた。城を開城させるとほかの城に逃走させ、さらに兵糧を消費させた。信長は和平交渉を裏切って船上の一揆勢を皆殺しにし、最後に残った城は焼き払った。

 一五七五年の長篠合戦における三段鉄砲隊には虚構が混じっている。三千挺の火縄銃を三分割して千挺ずつ発射するのは非合理的である。三つのグループによる交代射撃をするならその組は少人数のほうがよい。また、状況は刻々と変わるから一〇〇〇人の足並みをそろえさせるのは、起伏のある地形からみても不自然である。長篠合戦においては、織田・徳川軍の兵力優勢と、万全な迎撃体制、鉄砲の別働隊が勝因となった。

 石山本願寺毛利水軍の補給を受けていた。第一次木津川の戦いで織田水軍は毛利水軍に敗れる。そこで信長は鈍重な鉄甲船をつくらせ、これを小船によって護衛させ、補給路を断つ作戦をとった。毛利水軍は破れ、石山本願寺は補給を受けられなくなった。

 ――彼(信長)は敵の平凡な戦術に対し、平凡な戦術をもって対抗した。そうなれば、あとは物量が勝敗を決することになる。そして、多くの場合、圧倒的な物量を集中的に投入したのは彼のほうであった。

 著者は本能寺の変武田氏滅亡との関係について論じる。長篠合戦での敗退後、織田軍の追撃がはじまった。しかし、主力軍が一度も決戦することなく、勝頼は追い詰められ自害した。これは、信長の調略が功を奏し、穴山梅雪信君、小山田信茂など武田家重臣が相次いで寝返ったことが原因だった。

 信長は内応した武将たちを迎える。

 ――……木曾義昌が参上して馬二匹を献上した。接待には、伊勢長嶋城主の滝川一益があたった。信長は金工の名人、後藤源四郎が彫った十二神将の金物を付けた梨地の刀と黄金百枚を下賜するとともに、新領地として信州の内二郡をい与えた。

 一ヶ月たらずで武田の領地を手に入れ、そこに武将を派遣したことで、信長の身辺警護は手薄になった。さらに、老齢の滝川一益関八州の警固にまわされたことは、同じく老齢の光秀にとって他人事でなかった。著者の解釈では、文化人たる光秀が九州平定に飛ばされるのは耐えがたかったにちがいないという。

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 『信長公記』は「調略と出動の関係、野戦と城の関係、橋頭堡と付け城の運用、補給路の確保と破壊、兵力の大量動員、土木工事の重要性、鉄砲の効果など戦国末期における軍事の基本的要素」を活写している。

 われわれは通説を疑うことなく受け入れるが、それは通説を唱える学者の肩書きや権威から受け入れているのであって、実際に史料にあたり、検分して判断したわけではない。そもそもの資料が間違っていたり、資料を正しく読めていない、都合のよい解釈をしているというように、判断材料そのものが誤っていれば、その判断も誤ったものになるだろう。

 信長の戦争について、本書の説が正しいのか、それとも本書で批判されている説が正しいのかを、いまわたしが決定することはできない。冷静に考えて、文庫本を読んだだけの素人が確信をもつことなど不可能である。ただ、諸説があるということ、事実の精確な把握への執着が必要であることを学ばなければならない。

 

信長の戦争 『信長公記』に見る戦国軍事学 (講談社学術文庫)

信長の戦争 『信長公記』に見る戦国軍事学 (講談社学術文庫)