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the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『論理分析哲学』フォン・ヴリグト

 本書の目的は分析哲学、または論理分析哲学の紹介である。第一部では論理哲学の発展史をたどり、第二部では現代の論理哲学を展望する。

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 19世紀から20世紀にいたる哲学の潮流は、マルクス主義、新スコラ学、実存主義分析哲学の四つに分けられる。それぞれ国家、宗教、芸術、科学という誕生の基盤をもつ。

 マルクス主義の起源はヘーゲルである。ヘーゲル右派は観念論を、左派は実在論を唱えたが、マルクスやレーニンは左派の継承者である。観念論とは人間の意識こそ唯一の実在とする見方であり、実在論とは現実を実在のものとみなす主張である。

 新スコラ学は、ネオトミスム(新トマス・アキナス派)、新アリストテレス学派ともいえる。19世紀、レオ十三世がトマス・アキナスカトリックの公式教理とみなしたことで、新スコラ学は教会や神学校において研究された。

 マルクス主義、新スコラ学派ともに、マルクス・レーニン、トマス・アキナス、アリストテレスという権威をかかげ、また国家や教会など組織の運営と結託した点に共通項が見出される。

 実存主義第二次世界大戦後のヨーロッパ精神への懐疑から生まれたが、その起源はキルケゴールニーチェの主観主義にたどることができる。キルケゴールは哲学の体系化自体に反対した点で、当時のヘーゲルとは対極にある。彼らを受け継いだのがハイデガーであり、さらに実存哲学の名を広めたのがサルトルである。一方、実在論形而上学をとなえたボルツァーノから、ブレンターノ、フッサールにいたる現象学の分野も、実存主義に影響を与えた。サルトルハイデガー実存主義左派とすれば、右派は神学者カール・バルトベルジャーエフとすることができる。実存主義を総括するこころみは困難である。

 論理学は19世紀に復活をとげたが、その先駆はフレーゲである。フレーゲを継承したラッセルらが、論理に信頼を置く哲学、論理哲学を生み出した。論理分析哲学の出発点は数学にある。さらに、ヴィトゲンシュタインは、フレーゲとラッセルの問題を「言語の実体」の問題に拡張した。

 現代の論理分析哲学は、二つの方向に区別できる。意味論学派……「哲学的問題を解決する方法としての論理的構成」に信を寄せる、つまり「形式化」を信頼するタルスキ、カルナップ、クワインら。もう一方は、オックスフォード学派……日常言語の論理的性質を研究対象とするムーアから、ヴィトゲンシュタインまでをふくむ。

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 第一部

 アリストテレスは学問を真理からなる体系と考えた。真理にはそれ以上さかのぼることのできない公理と、公理から演繹される定理との二つがある。学問は公理を確立する作業であり、そのために用いられる「ゲームのルール」が論理である。論理は論理的真理をもつが、では、論理学は学問、つまり、公理からなる体系なのだろうか。論理学が学問かどうかを、論理学をもって検証することには矛盾がある。以上、アリストテレスの論理学を受け継いだのがスコラ哲学だった。

 ライプニッツは、アリストテレスの唱えた論理規則を、さらに計算法Caluclusによって明確にした。彼によれば「科学的思考とは計算と同義であり、論理学の役割は、これに「計算の規則」を与えること」である。

 計算法には形成規則と変形規則の二つがある。形成規則とは、計算法における変項(1,2,3といった数字)と定項(+-×÷)を組み合わせて、結合を指示するものである。変形規則は、ある表現から新しい表現を「導出」することである。

 変形とは、所与の表現から新しい表現へ移行することであり、つまり前提から結論に進むことと一致する。演繹的証明ないし論理的推論は、新しい事実をもたらすのではなく、「新しい言明を付け加える」ものである。

 英国のブールは、論理学と数学が対応することを明らかにした。ここでは、命題論理的な表現の、代数的な表現への置き換えが例として提示されている。命題論理とは、「計算法として把握することが可能」であり、変項が可能な事態(命題)を表す完全な文であり、定項は真理結合詞であるようなものをいう。代数的表現に対応させることで、命題論理の法則を証明することが可能になる。ブールは思考の論理的形式に数学が不可欠であることを示した学者であり、彼によれば論理学は数学の一分野である。

 フレーゲとラッセルの考えはは論理主義といわれる。論理主義とは「あらゆる数学的概念は、少数の論理的概念によって定義でき、かつあらゆる数学的真理は、少数の基礎的な論理的真理から導きえる」という主張である。フレーゲは事物と概念、クラス(集合)といった用語によって命題論理の公理化をおこなったが、ラッセルによってパラドックスが発見された。ラッセルは、タイプ理論によってこのアンチノミーを解決した。タイプ理論とは、事物・概念の対応にはsignificance有意領域(真・偽の真理値をもつ)をもつものと、無意味なものとがあるとするもので、排中律を否定する。

 タイプ理論を簡単にあらわすと以下のようになる……「なんらかのクラスが自分自身のメンバーであるかを問うことはできない」、「あるクラスのメンバーのすべてを擁する何者も、このクラスのメンバーとならない」。ラッセルのタイプ理論にもかかわらず、このパラドクスはいまだ健在である。しかしパラドックスは、「なんらかの表現の真理性を問う前に、表現の有意条件を知る必要がある」という事実を明らかにし、論理学と意味論との架け橋を築いた。

 ヒルベルトは厳密性と体系性を要求する公理的方向性を推し進め、その主張は「形式主義」とよばれる。アンチノミーの発見から、彼は「数学の無矛盾性の証明」に挑んだ。そのためには公理化が必須である。完全に形式化された公理体系とは、「計算法」つまり形式化・論理規則の決定と、「自然な公理体系」のことをいう。論理学の公理化とは、論理的真理を、論理的真理そのものをもってしてではなく、「技術的な証明規則」によって証明することである。

 このことから証明論が誕生した。証明論の目的は以下の四つである点公理的体系の無矛盾性の証明。いかなる定理も公理群のなかに紛れていないという証明。公理体系の完全性の追求。決定問題――問題の命題が所与の体系で証明可能か否か、の追求。最後の決定問題が解明されれば、あらゆる数学的特殊問題が解けるかどうかを知ることが可能になるだろう。論理学の基盤である命題論理では、この四つは解決される。しかし、つぎの述語論理では、決定問題が不可能である。さらに上の算術問題までくると、無矛盾性の証明すら困難になる。ヒルベルトの公理的方向性は、ゲーデルらによって批判された。ゲーデルは、論理・数学的真理の領域が、論理・数学的証明の領域よりも広大であることを示した。

 ヒルベルトの形式主義を批判したのがブラウアーであり、形式主義から論理主義までを否定したのがヴィトゲンシュタインである。ブラウアーは、数学を人間的思考の最も正確な部分を形成するものとし、この数学を研究対象にすることを自家撞着と考えた。彼によれば「数学的知識の「基礎」ないし「源泉」は直観」である。彼の立場は直観主義とよばれる。彼によれば、数学とは絶えざる創造であるため、法則集や完結した体系化などは無意味である。また、彼は排中律および間接証明法を批判し、有限の領域において妥当な論理を、無限個の対象にまで拡張することに警告を発した。

 ヴィトゲンシュタインは論理学におけるトートロジーの概念を提唱した。ある文の真理値が、他の特定の文の真理値によって一意的に決定されるとき、その文は、これら他の文の真理関数である。これを真理表によって吟味することができる。ある関数が、要素文の真偽と関係なく常に真となる場合、このような真理関数をトートロジーという。例えば、「雨が降るか、または雨が降らない」は前者・後者の真偽にかかわらず真である。論理的真理はトートロジーであり、「その完璧な普遍性の代償として内容を犠牲にすることを余儀なくされている」。

 彼は論理主義にも、また「数学的真理を論理的真理と同様のトートロジーとみなす」見解にも反対した。数学は、論理にかかわらず確固として単独で存在している。数学は「対象(概念)を自律的、自発的に創出するという性格」をもつ。数学とは何かを計る「ものさし」であり、計るべき何かではない。

 ――……(論理や数学の命題)は、実在に関する思考を分節化、明晰化するための規則ないし枠として思考が創出したのである。

 多値論理、様相論理、直観主義論理をまとめて非古典論理学という。様相論理学はウカシェーヴィチの多値論理学の副産物として、また他の部分はルイスの厳密含意の論理学の副産物として誕生した。様相論理学とは、様相modalityとよばれる概念……可能性、不可能性、必然性、偶発性を示す。

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 第二部においてわれわれは現代の論理哲学を展望する。

 ラッセルの論理分析

 まず、ラッセルの論理分析について説明する。論理分析には確定記述definite discriptionの理論、直接知への還元可能性reducibility to acquaintanceのテーゼ、思考の論理的構成logical constructionsの三つの理論がある。確定記述とは「合衆国の現大統領」といった表現を意味する。確定記述を含む文は以下のように置き換えられる……「一つの事物があり、それは合衆国の現大統領であり、それは没した」。この分析によって、「文の文法的構成が、文の示す事態の論理的構成を常に反映するとはかぎらない」ことを指摘した。では論理的構成とはなにか。われわれは事物を直接知ることはできず、センスデータやメモリデータを通して事物を知る。「事物は実在そのものではなく既知の事実に基づいて構築された論理的構成として捉えるべきである」。たとえば書斎机は、センスデータに基づく論理的構成、論理的仮構(フィクション)である。確定記述「わたしの書斎机」は表題にすぎず、「色彩、形態、触感等の概念によって構築される実に複雑な総体を代理しているのである」。ただし、これら論理分析の概念はあまり後世に影響を与えなかった。

 ヴィトゲンシュタイン論理哲学論考

 事物が世界の実体をつくりあげる。あらゆる事物は、それが複合体である限り、不可分の単一要素に解体できる。言語が有意味であるためには、単一事物(単一要素)が存在していなければならない。たとえば「馬」は各部分(頭、たてがみ、尾等)に還元できる。しかし、究極的には単一事物が存在していなければ語の意味は「宙に浮く」。一方、「しかし」「および」「でない」「あらゆる」などの論理定項は、いかなる実在も意味しない。事物の名前でもなければ、複合体の名前でもない。この論理定項を除くと、要素だけからなる要素文にたどりつく。しかし、それは語の羅列にすぎない。よって、「あらゆる言語的表現が単一事物の名前に解体できるということは、言語の有意味性によって必要条件であるかもしれないが、十分条件ではありえない」。

 文を有意味にするために、ヴィトゲンシュタインは文・命題を写像(映像)mappingとみなす。事態とは諸事物の布置(構成)である。事態において事物は一定の仕方で関係している。これを事態の構造という。事物とは積木である。世界は、すべての事実の総体、実際に存在している事態の総和である。写像は各事物に対応して「構造」をなすがこれを写像の「論理形式」という。当然、写像の各要素は、それらに対応する各事物が現実に結合しているのと同じ仕方で、写像において結合している必要はない。ケンタウロスはその例である。そして、写像もまた事実である。

 ――したがって……絵画の色班と輪郭が、一定の仕方で互いに関係しているというまさにその事実が、なんらかの写像を、たとえばグスタフ国王のリュッツェンでの戦死という写像を、成立させるのである。写像と同じく、文・命題もまた実在の事物に対応する要素、すなわち名前(名辞)から成り立っている。

 文や絵画もまた事実である。事実のみが意味を表現しえる。色班や名辞の寄せ集めにはそれができない。ヴィトゲンシュタインは事実を思考とよぶ。

 論理定項はいかなる実在も含まないと書いたが、ではその役割はなにか。「真理関数として諸命題を結合するのが論理定項の唯一の役割」である。文は、真偽がわからなくとも、理解することができる。「意味は真理に先行する」。文はまず理解しなければならない。そこから次の帰結がもたらされる……「いかなる文(写像)もアプリオリ(先験的)に真ではあり得ない」。文の真理性は文と、文の外側にある実在との間の対応性を意味するので、実在と比較照合しなければならない。この例外が、論理定項、すなわち、論理的真理・数学である。論理的真理は、現実世界の不断の変化から独立している。

 写像そのものからは、それが事態と一致するかどうか、真か偽かは判断できない。よって言語は事実を語ることができる。しかし、意味は語りえない。

 自然科学は、すべての真なる命題の総体からなる「世界像」である。言葉で表現できない事柄は世界に属さない。それは超越的である。論理的真理、および価値は、超越的であるかわりに意味を欠く。

 さて、哲学の問題の多くは、誤りでなく意味をなさない。実証科学の命題は肯定・否定が可能だが、哲学の命題は反証できない。よって有意味でない。これは、哲学が、言語では表現できないこと、つまり論理的真理では表現できないことを言い表そうとしているからである。ヴィトゲンシュタインによれば論理の限界は世界の限界なのである。言語の本性がここでは重要になる。哲学は世界像ではなく世界観であり、論理を超える、すなわち超越論的であろうとする。つまりそれは真偽をもつ有意味領域ではない。哲学は意味をなさず、したがって命題ではない。

 論理実証主義

 マッハにつづくカルナップは、現象論と唯物論の折衷である論理的経験論を推し進めた。ウィーン学団の創始した論理実証主義は、後期に論理的経験論とよばれるようになった。

 意味論

 哲学的意味論semanticsには二つの主要方向、意味論上の基礎概念の研究および概念の意味論全般がある。ここでは前者をとりあげる。意味論上の基礎概念の研究はフレーゲワルシャワ学派、タルスキ、カルナップ、クワインらによっておこなわれた。
タルスキの真理理論は以下のようなものである。定義「Pであるとき、かつそのときにかぎって、Xは真である」というとき、Pは任意の文を、Xはこの文の名前ないしは描写である。これを真理概念の「意味論的」定義とする。しかしPに「この文は偽である」を代入すると、この定義は矛盾を含み、真ではない。タルスキによれば、「言語全体に対して適用しえる真理概念の定義を与えることは不可能」なのだ。この限定的な定義可能部分を「言語」とよぶ。言語は、「それに属するあらゆる文の真理条件がその言語内で表現可能であってはならない」。これを意味論的に開かれた言語という。

 フレーゲは「意義」と「意味」を区別した。「明けの明星」と「宵の明星」の意義は異なるが、意味は同一である。意味とは名前が指示する事物ないし事柄である。一方意義はそうではない。文の意味はすなわちその文の真理値である。カルナップは意味と意義に対応させて、内包intentionと外延extentionの概念を提唱した。

 クワインにおいては、指示対象referenceと意義meaningが区別される。「明けの明星」の指示対象は金星である。しかし、「明けの明星」の役割は指示するだけではない。指示の理論は、名前とそれが指す事物との間の関係などを研究する。よって真理概念は指示の理論に属し、真理性とは文とその指示対象との間の関係である。他方、言葉の意義に関する理論は、意義という概念および、同義性、有意味性、分析性、総合性などを研究する。「文中の語をそれの同義語と置き換えることによって論理的真理に変換することが可能であれば、文は分析的analyticに真である」。

 イデオロギーideologyとはその言語があらわす「意義」についての理論であり、存在論ontologyとはその言語による文が真であるために何が存在していなければならないかについての理論である。意味論的存在論とはWhat is there? という形式をとり、一般概念を実在論realismとしてとらえるか概念論conceptualismとしてとらえるか唯名論nominalismとしてとらえるか、という古典的存在論と共通の問題をもつ。

 彼によれば、ある言語の文が真であるために存在していなければならない指示対象とは、その言語において束縛されて現れる変項variableの値valueのことである。変項の値は、たとえば個別の動物も、「種」などの一般概念も含む。クワインは初期において「すべての真理は、唯名論的言語によって述べることができる」と主張した。唯名論とは、「個別的対象だけが存在し、概念とは「単なる記号」にすぎない」とする思考である。

 ムーアの分析的方法

 ムーアの著作を順を追って概説する。彼は「観念論に対する反駁」において、知覚は意識と知覚の対象に分解できると主張した。対象と意識は別の事柄であり、対象は意識から離れて存在する。よって彼は実在論の立場をとる。つづいて、彼は内容contentsの概念を導入し、それはセンスデータ概念につながる。彼は、センスデータは物体の表面の要素でもあり、意識に属することにも肯定的だった。

 『倫理学原理』『倫理学』では善の内容が問われる。「善とはなにか」というとき、この問いには「いかなる事柄がよいのか」という価値論的内容と、「善いとはなにを意味するのか」という意味論的内容が含まれる。後者の問いにたいしてムーアは、「善の概念は定義できない」という結論をくだす。善をなんらかの概念の複合体とみなすことは自然主義的誤謬The Naturalistic Fallacyである。事柄の善悪は証明できないが、知ることはできる。このような非経験的で立証できない倫理的知識を直観とよぶ。道徳評価は命題ではありえない。価値評価は真でも偽でもない。価値は「実在的」ではない。

 『倫理学』では正と義務、自由意志についての考察もおこなわれる。

 「常識の擁護」において、多くの哲学者が常識的世界観と矛盾すると思われる見地を標榜していることを批判する。彼はデカルトからヒュームにいたる懐疑論から離れるべきことを主張した。ムーアにとっては、「(これは私の手である、机の上にインク瓶がある等の)物質世界の常識的把握が、それに立脚して、われわれが意識の外側の世界を確信し得る不動の基盤なのである」。

 ムーアが探求するのは、真理と証明ではなく、意味と分析である。論理分析は言語の分析ではなく、概念や命題propositionを要素に分解することである。分析される概念を被分析項analysandum, それによって得られる概念複合、要素を分析項analysansとする。この被分析項と分析項が同一であるとき、論理分析が可能である。ムーアは、日常的言語使用と照合することで、論理分析が可能であると考えた。

 哲学者の仕事は、日常言語の意味の成分を引き出し、厳密定義することである。哲学者の求める真理、存在、善には、「解明し得る意味や本質など、もともと存在しない」。

 後期のヴィトゲンシュタイン

 後期の哲学探究の二つのテーマが「言語ゲーム」と「家族的類似性」である。哲学は一般にものごとを抽象化して考えるものである。しかし、『哲学探究』においては、実例が主題となり、前提でなく結論として用いられている。理論構築を企てない具体主義である。

 言語ゲームとは、原初的な未発達の言語をいう。原初的な言語の発達を観察すると、言葉が何かを「意味する」仕方は多様で、「言葉の使い方」、言語使用についての当事者の了解が必要であることがわかる。言語の使用法は画一的(規則的)ではないのだ。

 家族的類似family resembranceとは、「無数の繊維が絡み合ったロープ」であり、部分的類似によるつながりを意味する。「われわれが同じ言葉を使うのは、事柄そのものの類似に基づくとは限らない」。言語ゲームは数え切れないのだ。たとえば、「宗教画」や「数」概念に一貫した共通項はないが、それぞれ部分的な類似をもち、全体として網の目のように広がっている。
現代の概念哲学には、構成的(体系を構築する)なものと分析的(概念を分解する)ものとがある。しかし、その双方とも、「概念内容や文の意義を定義することは可能である」という信念にとらわれている。ヴィトゲンシュタインは次のように主張する……概念の定義を求めるものは幻想を追っているにすぎない。解明し得る本質などもともと存在しない。哲学は何も語らず、その方法は記述的である。

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 フレーゲ、ラッセルからはじまる分析哲学や、今でも引用されるヴィトゲンシュタインらの思考をわかりやすく提示してくれる本である。

 

論理分析哲学 (講談社学術文庫)

論理分析哲学 (講談社学術文庫)