うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『日本の近代9 逆説の軍隊』戸部良一

 8月15日終戦日、皇居周辺に位置する近衛師団においてクーデターをもくろむ将校が宮城事件をおこす。クーデターは失敗し、決起派は鎮圧される。この事件は陸軍の狂気と同時に、冷静さをも示している。

 ファナティシズム(狂気)が常態化していた昭和陸軍のイメージと異なり、建設時や日露戦争時、北清事変義和団の乱)のときの日本軍は軍規の高さで知られていた。近代化がすすむにつれ、軍隊は変容したのである。

 本書は軍隊の発展と、狂気・非合理性にいたる過程を追う。

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 1 誕生

 新政府をつくりだした官軍は雄藩の武士があつまったものであり、新政府直轄の軍隊はまだ存在しなかった。自前の軍隊をつくる計画は大村益次郎によりはじめられ、大村が暗殺されてからは山縣有朋が引き継いだ。

 明治政府成立直後は、まだ藩が兵を抱えており、武士の特権ものこっていた。明治政府はこれを中央集権化し、四民平等に基づいた軍隊をつくろうとした。廃藩置県によって藩の権力を解体し、また徴兵制によって農民からも兵を集めた。

 徴兵は忌避されてうまくいかず、かわりに国軍として働いたのは薩長土から譲り受けた御親兵だった。さらに明治政府は4箇所 (のち6箇所)に鎮台を置き、不平士族や農民の反乱に備えた。

 西南戦争の勝利によって、農民出身の徴兵たちも武士にたいし優位に立てることがわかった。ところが軍規はまだ確立しておらず、戦争に貢献した近衛砲兵たちが論功行賞に不満を持ち強訴をおこなった(竹橋事件)。

 竹橋事件の直後西周が軍人訓戒を発布し、軍人の政治不関与を説いたが、改善されなかった。民権運動に感化される軍人や、開拓使官有物払い下げ事件への抗議などが相次ぎ、1882年、西は天皇=国家への忠誠を説く軍人勅諭を発布する。

 軍人勅諭とともに、統帥権独立も、政治的中立を確立するためにつくられた。「政権と兵権を分離するとは、軍隊を政治から切り離し、その政治的中立性を確保することでもあった」。

 2 成長

 軍隊の専門職化、近代化はつづく。陸軍幼年学校ははじめフランス式に設計され、招魂社(靖国神社)の礼拝もフランス語のカトリック様式という徹底振りだった。1887年、モルトケの部下メッケルが顧問として来日しドイツ式の陸軍士官学校が設立される。また、1883年、西南戦争の反省を生かし、高等統帥、参謀補佐の養成のため陸軍大学校が設立された。

 80年代から軍事費が上昇し、即応体制を整えるために鎮台にかわって師団がおかれ、また清国海軍の侵攻にそなえた演習もおこなわれる。鎮台が周辺治安維持を目的とするのにたいし、師団には機動力、また外征の能力も備わっていた。ただし、この時期にすでに大陸進出を前提としていたとは考えにくい。

 1885年の内閣制度発足にあわせて、軍制改革も同時におこなわれ、統帥権の独立、フランス式からドイツ式への転換が実施された。当時のドイツ軍事システムは世界最先端であり、フランスも一部をとりいれつつあった。

 日進・日露の戦争を経て、国家財政規模は8倍にまでふくれあがり、国民国家としての意識が定着した。日清にくらべ日露戦争ははるかに規模の大きな戦争であり、またロシア軍に勝利したのも僥倖というにふさわしかった。

 清国の軍は近代化されておらず能力・士気ともに日本軍のほうが勝っていた。両軍とも突発的な非戦闘員の殺害をおこし、清国は日本軍捕虜をほとんど処分してしまった。

 日本とロシアは、兵器にかんしては互角だったが、ロシアが防御側だったこと、日本に攻撃精神が足りなかったことから苦戦した。戦後、攻撃精神が逆に強調されすぎて、物量の重要さが軽視される風潮に変わっていく。

 両戦争ともに軍紀はそこそこ保たれていたという。

 3 爛熟

 統帥権の独立、軍部大臣現役武官制と、政党・政治から軍の独立を保つ制度はつくられたが、日清・日露戦争期は、帝国主義の時代でもあり、政治と軍のあいだに基本的に不一致はなかった。また元老たちは制度の限界も心得て、柔軟に対応していた。政治家はときに軍の作戦にも口をはさみ、また軍人も政府の決定に服した。

 日露戦争後、社会の目標喪失によって世の中の規律紊乱がすすみ、軍隊にも影響するようになった。さらに、第一次大戦によってデモクラシーが重視されると、軍隊はデモクラシーの文化を受け入れる軍人と、強固に反対する軍人とで対立した。また、ロシア、ドイツの政治体制の転覆により、日本では国体が重視されるにいたった。天皇への過度の崇拝もこの時期からである。

 ――……国体をデモクラシー的に読み換えようとする試みが、軍人の間になかったわけではない。だが、最終的に軍が採用したのは、君主制の尊厳性を非合理的なまでに強調する国体論であった。

 第一次大戦の結果、戦争の形態は総力戦にかわり、日本は二流以下の軍事力に転落した。また日本が総力戦をたたかえる資源状況でないことも判明した。そこで宇垣は軍を近代化するために師団削減を実行するが、これが反感を買った。

 厭戦の気分、また平和の時代のなかで軍人の相対的給与、社会的地位は低下した。

 ――青年将校は転職の準備に精を出し、老・壮将校は生活苦ばかり口にしてヤケになり、軍人としての本務に身を入れなくなっている、というのである。これが実情であるならば、将校の士気が沈滞しても不思議ではなかった。

 ――……いつの間にか軍人は社会常識不足を批判され、平和主義的風潮のなかで余計者扱いをされるようになってしまった。

 4 変容 と 5 エピローグ

 満州事変を機に、軍人は大手を振って歩くようになる。腐敗した政党政治に国民が愛想を尽かし、一撃打開策をもとめていたことも、満州事変礼賛に傾いた要因だった。著者は、普選の拡大が早すぎたのではないか、と主張する。

 攻撃精神の強調、物量・科学技術の軽視はますますひどくなり、このシステムを変更するコストも莫大になっていった。海軍の零戦や大和など、一部の最先端兵器をのぞいて、日本軍は第一次大戦の兵器で戦争をすることになった。

 将校教育は極度に精神的・国粋的になっていった。学徒出陣は不足した将校・幹部候補生を補うためにおこなわれた。英米では日本と逆に、開戦時に学生の志願兵が殺到し大学はカラになったという。

 急激に軍隊の規模を膨張させたこと、負け戦がつづいたこと、戦争目的が明確でなかったことが、日本軍の不軍紀の原因となった。また、陸軍150万、海軍50万の死者で、陸軍については、戦病死者が戦死者を上回った。

 

日本の近代 9 逆説の軍隊

日本の近代 9 逆説の軍隊