うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『狼煙を見よ』松下竜一

 ――〝人民〟という概念があります。まだぼくがガチガチにイキがっていた頃、ぼくはこの〝人民〟や〝大衆〟という表現をまったく無頓着に使ってきました。それは十代後半から左翼運動に入って、そういった表現に麻痺していたんでしょうね。……ところで〝人民〟や〝大衆〟といってしまう時、個々の生活者の特殊性などは見えなくなってしまいます。運動の力学ということでいえば、選挙のようなものから武装闘争までマスとしての〝大衆〟なり〝人民〟なりが問題となるということはわかるんです。ただその時、その〝大衆〟なり〝人民〟の一人一人の生活、特殊性に思いを馳せなければ、それは全く人間性を欠いたものになる訳です。

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 東アジア反日武装戦線〝狼〟は1974年に三菱重工ビルを爆破し8名の死者と数百名の負傷者を出した。これにつづいて〝狼〟や別の部隊〝大地の牙〟、〝さそり〟なども三井物産や大手ゼネコンを標的に爆弾をしかけた。

 爆弾グループのリーダーは真面目な性格であり、幼い頃から罪悪感ややましさを植えつけられて育った。彼らは歴史研究によって日本が朝鮮、中国、アイヌなどに迫害を加えていた事実を知り、彼らのために反日爆弾テロをおこなうことを決意する。

 宗教家は神の意思をおもんばかって敵を攻撃するが、彼らの場合は外国人や少数民族の心情をおもんばかって非合法活動に手を染めた。「おもいやり」を建前にかかげることは珍しくない。しかし、本書において描かれているテロリストたちの背後には、実際的な動機や利益が存在しない。狂信的という形容がふさわしいが、その根源の一部が実体験でなく歴史研究というところに違和感をおぼえる。テロ活動をおこなう際に、肝心の朝鮮人や沖縄人と意思疎通をはかったという事実はないようだ。引用した主犯の反省文の通り、彼らの脳内では「日帝に迫害されている人民」は一枚岩の、のっぺりした抽象的な概念だったのではないか。

 抽象概念・観念的な思想が、物欲・実際的な動機に勝る力をもつことは、ロシア革命ポル・ポト、2・26の将校たちが示している。彼らは抽象概念とことばで現実を塗りつぶして、広範に及ぶ損害を与えることができた。ところが、本書のテロリストたちは最初の犯行、つまり三菱重工爆破のときの死者にショックをうけたようで、その後も人身への被害に葛藤していたという。彼らは狂信的である一方で、人の命を大切にしている。ことばの殉教者、聖戦士としては、煮え切らない印象をうける。

 実行犯とそのとりまき全般について、ことば遊びが目につく。意図せぬ死者を出したことにたいして、彼らは会議をおこない、どう正当化するかを検討する。また、獄中の犯人は「獄中での闘争によってむしろ人民の心とつながる」云々といったことばをもてあそぶ。「獄中闘争」は単なる点呼拒否である。彼らが捕まって拘置所に入れられたという事実、つまり彼らのいうたたかいに負けた事実は、美辞麗句を駆使したところで変わるものではない。権力および企業への攻撃作戦を計画しながら、その結果や影響についても勇壮な文章でお茶を濁す。まずは客観的に状況を把握し、事実を知ることが大切のはずだが、彼らは戦時中の非合理的軍隊と同様、口だけは立派である。大言壮語、ことばによる事実の転倒、空元気、こうしたことばの悪い部分ばかりが目立つ。

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 何清漣は毛沢東の殺伐とした文体がいまでも現代中国にはびこっていることを指摘したが、攻撃的な、軍事用語や戦争の比喩を多用した、余裕のない殺気立った言葉遣いが、テロリストたちの文書をも特徴づけている。わたしもよく「外交」とか「たたかい」とかの、かしこまった言葉をよく使う。これは爆弾魔の現実糊塗と本質的には一緒である。チャチな生活を軍事・外交用語で飾り立てて、気分をもりあげているにすぎない。気分はもりあがるが、それは酔っ払うということだ。

 ことばは現実を変貌させ、またわれわれの気分を動かす力をもっている。ただし、使い方を誤れば本書のテロリストのように現実を見誤り、非合理的な行動に走ることになる。

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 学生運動を含む、戦後の社会騒乱を、広い視野から検討した評論はあるのだろうか。

 著者の松下竜一は、テロリストについては真摯に支配・被支配の問題を考えた青年たちであるとし、死刑制度を含む国家暴力には反対する。おわりまで読んでみて同情と共感がこめられている、と感じたが、顔がひきつるほど偏っているようにはみえない。ある程度の肩入れ、感情移入がなければ、取材もすすまず、この本が完成することもなかっただろう。