うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『ホモ・ルーデンス』ホイジンガ

 「ホモ・サピエンス」、「ホモ・ファーベル」(作る人)と、人間の呼称は数多い。ホイジンガは「ホモ・ルーデンス」(遊ぶ人)という名前をつくり、遊びが人間の習性に占める大きさを強調する。遊びは文化より古く、動物もまた遊ぶ。遊びは「なんらかの意味をもった一つの機能なのである」。

 世界各地の風習や、語源を参照しながら、遊びがいかに人間性を形成しているかを証明する。

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 遊びの本質は、人をひきつける魅力、つまり「面白さ」にある。「面白さ」はそれ以上分解のできない、根源的なものである。遊びは精神的活動だが、善悪や美徳といった評価は含まれていない。

 遊びは独立・自立した行動体系である。

 「それ以外のあらゆる思考形式とは、つねに無関係である」。

 遊びはまず自由な行動である。また、日常あるいは本来の生ではない。遊びは利害関係から離れており、必要の過程の外にある。

 さまざまな言語の語源から、「遊び」という概念のおこりを調べていく。遊びがはじめにあり、遊びでないものを「まじめ」という。まじめは遊びの否定にすぎない。

 文化のなかに遊びも含まれるのではない。遊びのなかから文化が生まれるのである。文化は遊びのなかにある。遊びは、対立、勝利、などの概念と関連している。

 名誉、栄誉、優越は人間の根源的な欲求であり、遊びはこれを満たすためにもおこなわれる。ギリシアやローマに見られるように、遊びには闘技的要素が深くかかわっている。「いかなる文化の場合にも、その生成発展の過程のなかで、闘技的機能、闘技的構造は早くも古代期のうちに、その最も明晰な形をとってしまった」。

 ――われわれ人間はつねにより高いものを追い求める存在で、それが現世の名誉や優越であろうと、または地上的なものを超越した権利であろうと、とにかくわれわれは、そういうものを追求する本性をそなえているが、この本性そのものがその同種性(遊びの同種性)の原因なのだ……

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 遊びとは対極にあるようにみえる法・法律も、訴訟の手順に目を向けてみれば、むしろ遊びと類縁にあることがわかる。訴訟はまず倫理的概念と切り離され、残るのが賭け事としての側面、そして競技、闘技としての側面である。訴訟の起源をたどると、神明裁判や籤にいたる。

 戦争もまた遊びと分かちがたい要素をもっている。戦争における遊びの部分から、騎士道精神、武士道、もしくは国際法というものが生まれた。ある時期の戦争では、本来の目的である敵の殲滅や征服よりも、勝者としての名誉を重んじる風潮が主流になった。

 謎かけや問答など、知識の分野も遊びの影響下にある。

 詩は、まさにまじめの対極といったものだが、人間にとって原始的なものであり、同時に社会的役割を果たしてもいる。このことは古代文化でとくに顕著である。

 ギリシア文化を参考に、哲学、弁論、音楽、演劇、造形芸術など、社会の多岐に渡る分野が遊びのなかに生まれたことを指摘する。古代ギリシアにおいては、まじめな哲学と、論争のための装飾的なソフィズム(詭弁)とのあいだに明確な差はなかった。

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 ヨーロッパ文化の変遷をたどると、中世、ルネサンスバロックロココと、常に遊びの要素に満ちていたことがわかる。それが変化したのは、19世紀、科学と合理主義、功利主義、産業が発達した時代である。19世紀から、あらゆる文化領域において真面目がもてはやされるようになり、遊びは乏しくなった。この世紀に発達したスポーツについても、ホイジンガは否定的である。スポーツは大衆をひきつけはしたが、プロとアマが隔離し、プロ、つまり職業遊戯者にとっては、もはや遊びの要素は皆無である。同様に、チェスやコントラクト・ブリッジなど、過度に知的能力を要求する盤上競技、トランプなども、著者にとっては集中力や知性の浪費に感じられる。芸術も、印象主義を「遊びの要素にかけたもの」として否定している。

 中世史家、古典古代に強い学者らしく、同時代(19世紀~20世紀)の文化思潮には批判的である。『朝の影のなかに』におけるナチス批判を読めば、彼が現代文明に否定的になるのも納得できる。

 一方、ベーデン=パウエル卿のおこしたボーイスカウトについては、「組織された少年精神の社会的な力を初めて理解し、それを驚くべき独創、開拓者運動に置き換えた功績」と絶賛している。遊びを遊びとはっきり自覚しているところに、ボーイスカウトの利点がある。

 現代(19世紀~20世紀)における遊びの喪失は、戦争にもまた影を落とす。容赦のない総力戦を、ホイジンガは騎士道精神に欠けたものとして批判する。しかし、中世の戦争においても一般民は略奪の被害を被っていた。遊びの要素はもともと血なまぐささを含む。また、戦争に遊びがあろうとなかろうと、やはり戦争とは凄惨な行為である。中世だけをとっても、たとえば日本の戦国時代に人道的な要素は微塵もない。

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 遊びは人間にとって不可欠である。プラトンいわく、「人間のさまざまの問題は、たしかに大いなる真面目さをもってするには値しないものです」。

 人間は神の操り人形なのだから、その出自にふさわしく遊びを遊ぶのが幸福である。人間は「神々の遊びの具」にすぎない。「すべて遊びなり」ということば、旧約聖書箴言が説得力をもつ。

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 遊びと真面目という観点から社会や歴史を眺めると、遊びとは対極の分野にも遊びの要素があったり、それどころか遊びが起源であったりすることに気づかされる。ものの広い歴史を知り、幅のある時間間隔を身につけなければわからないことである。

 

ホモ・ルーデンス (中公文庫)

ホモ・ルーデンス (中公文庫)