うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『敵の顔』サム・キーン

 副題「憎悪と戦争の心理学」とあり、敵をつくりだす心理や、プロパガンダについて論じた本。

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 ――われわれ人類は敵対人(ホモ・ホスティリス)、つまり、敵対する種、敵をつくる動物なのだ。

 われわれは戦争をおこない敵を殺す。そのためにはまず敵をつくらなければならない。敵のイメージ形成は、いくつかの元型(プロトタイプ)を敵にあてはめる、というふうに定式化されている。相手が生身の人間、自分たちと同じ人間だという意識が残っていては、躊躇無く殺すことができない。そのため、敵はまず人間性を剥奪される。

 敵は見知らぬ者、他人である。もともと敵を意味するhostileとは、かかわりのない人間という意味だった。

 敵は、われわれを攻撃する。敵はあらゆる陰謀をはりめぐらせてわれわれを陥れようとする。敵は「神の敵」である。仏敵ということばが示すとおりである。共産主義者は神をほろぼす無心論者としてえがかれ、ドイツは神を冒涜するものとしてえがかれる。敵は野蛮であり、文明をおびやかすものである。敵は犯罪者、無法者、アナーキストである。敵はサディストであり、拷問をおこない、女を強姦する。

 さらに敵のイメージが強烈になると、かれらはもはや人間でなくなる。ユダヤ人はねずみの駆除と同じに扱われ、アジア人はけもの、虫けらと同化する。また、病原菌、癌などとも同一視される。最後に、敵は死そのものとして扱われる。

 

 著者は近代戦や国民国家を前提にした総力戦を嫌悪するいっぽう、前近代の戦争や、職業軍人にはだいぶ甘い評価を下している。

 前近代のたたかい……武士道や騎士道、遊戯としての戦争が通用した時代には、戦争は現代のような苛烈な結果を招くことがなかった、と主張する。しかし、これは鵜呑みにできない。武士道が成立したのは平和な江戸時代であり、戦国時代の武士たちは無法者の集団だった。また、騎士やギリシアの市民たちがフェア・プレーを重んじていたのは確かだとしても、戦士でない一般民・農民にたいする公正さはなかった。

 カイヨワは『戦争論』で、誇り高い騎士たちが好き放題に村を略奪し、焼き払う様子を描いている。

 

 フェア・プレイの精神、敵を尊敬し、礼儀を重んじる態度、こうした要素を現代において保持しているのが、著者によれば、職業軍人なのである。

 敵をつくるイメージ戦略、プロパガンダは、世論を誘導するため、国民に戦争を納得させるために用いられる。職業軍人の仕事は、敵を知り、敵の考え方を想像し、理解し、これに対処することである。職業軍人は敵をよく知るため、また技術的なことに専念して戦争にとりくむため、敵への憎しみに支配されることが少ない。

 英雄的戦争が消滅した原因のひとつが、科学技術の進歩・兵器の発展である。戦争技術の発達は、敵を抽象概念に変えてしまう。

 ――昔の戦士には、どっしりとした肉体的力、敏捷さ、熱烈な憎悪、そして殺人を堪能する能力が必要とされた。彼は、獰猛で、誇り高く、尊大で、威圧的で、得意げで、残虐行為や死の前でも気楽でいられた。当今の戦士はこれと反対に、冷静で感情に動かされない専門家でなくてはならない。計算が正確であり、効率への愛は別として他のどんな情熱にも思考が乱されない場合にのみ、戦士は勝利する。今日そしてこれからの戦士は、コンピューター専門家とヴィデオゲーム・プレイヤーがもつすべての長所を備えるであろうことを、軍隊は見逃さなかった。

 

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 後半では、戦争を引き起こす心理、敵をつくりだす心理を、個人の次元から考察する。われわれは自分のなかの醜い部分、見たくない部分を敵に投影する。敵対心と競争心によってしばられた心は、まわりのものすべてを敵とみなす。

 民主主義国家においては、敵をつくりだし戦争をおこすのは国民の責任でもある。

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 後半は、政教分離の推進や、友愛精神の教育など、幾分空想的な解決策が提示される。

 

敵の顔―憎悪と戦争の心理学 (パルマケイア叢書)

敵の顔―憎悪と戦争の心理学 (パルマケイア叢書)