うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『やさしい唯識』横山紘一

 唯識三年、倶舎六年、むずかしいと評判の唯識に触れてみる。

 各所で、「いやな時代になった」というじいさんの文句が垂れ流されるが、唯識の理解に関係しないかぎりは無視する。

 仏教の体系、用語などをまともに覚えようとすれば尋常でない努力が必要になる。

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 仏教の根本的教理は無我である。「存在するのは唯だ身体、唯だ心だけであるのに、それを自分である、あるいは自分のものと誤認している」、この錯誤を<五蘊を縁じて我・我所と執する>という。

 そして「すべては心の中にある、心を離れてはものは存在しない、心の外にはものはない」ということを「一切不離識、唯識無境」という。

 唯識大乗仏教中観派の「空」思想にたいする批判から生まれた。「唯識思想はヨーガを実践し、自己の心のありようを深層から浄化することによって、迷いから悟りに至るための方法と階梯とを詳細に説いて」いる。

 唯識は唯心論的な思想である。「一人一宇宙」といって、各人が宇宙をもっているという考えが核にある。具体的世界と抽象的世界があり、前者は心のなかにある世界、後者はことばだけの世界である。

 心のなかの「感覚」と「思い」と「言葉」とによって、種々の映像が織りなされる。わたしたちが認識する世界は「ある」のでなく「なる」。無色無名の世界を自他対立、怨みつらみ煩悩の世界にかえるのは、われわれのにごった心が「思い」と「言葉」によって加工してしまうからだ。

 この加工をもういちどもとの世界にもどすことを「念・定・慧」といい、ヨーガという。

 あらゆる苦悩、四苦八苦の根本原因は無明にある。無明が我執と法執をうむ。我執とは自分を設定し自分に執着すること、法執とはものを設定しものに執着することをいう。自分も、ものも、われわれはなにも知ることはできない、それを無明という。
われわれは生まれるときから死ぬまで「生かされている」、このような「他者があって自己がある」という「理」を<縁起の理>という。

 縁起とは……「AあればBあり、AなければBなし」

 明鏡止水のことばのように、乱れた心(散心)が静まり定まった心(定心)になることを<菩提>といい、そのなかにある、「その如くにあるもの」を<真如>という。唯識によれば、われわれが生きていくうえで頼りにすべきは、不確かな他人や地位名誉ではなく、真如である。

 自分と他人を絶対視せず、関係視せよ。

 心には表層と深層がある。表層の心はいつも荒波のようにうごいている。表層の汚れは深層におちこみ、重い心になってしまう。

 識とは心のことだから唯識とは唯心である。しかし、西洋の唯心論とは根本的に異なる。唯識は「他者を救い、自らも救われていくための、救済のための唯心論である」。

 唯識では、心はあるでもなく、ないでもなく、最終的に有無をこえた空にいたる。

 ――「空」というのは決して論理ではなく、空と観る「空観」ですから、そこには空じる力が必要になります。

 幽霊を克服して幽霊を空とするように、心の中の像である「相」を空と観ることを「遣相」という。空としたあとも残るものがすなわち真如である。

 職、心を確固たる存在とせず、あくまで「観る」というような動詞として仮に存在する、と唯識では考える。

 意識は言葉を用いて考える、言葉は心を迷わし、また迷いを正す。

 唯識思想いわく、真理に至るには四つの段階が必要である……正しい師に出会う、師の教えを正しく聞く、聞いたことを理に則して思考する、真理に至る。

 仏教では、師や釈尊の教えを自分で理の如くに思考しなければならない……如理作意。唯識では四つの道理にもとづいて観察することが求められる。

 心には、心そのものである心王と、心所がある。心所の分析は原始仏教からおこり、精緻化された。心所には遍行、別境、善、煩悩、随煩悩、不定などの範疇にわかれる。

 人間の生活の根本問題は苦である。

 幼児はひっきりなしに「あれはなに、あれはなに」と問う。われわれも自分がなにものなのか、宇宙や世界、自然とはなにものなのか、とにかくなにかなにかと問わなければならん。

 意志があって人間は生きる。欲望、もしくは生きるエネルギーによって、人間は善く、幸福に生きようとする。他人の幸福のみを考え自分の苦楽を省みないものを菩薩といい、菩薩の誓願という。

 識は我を生ずるが、それは生のエネルギーでもある。識のありようを「智」に転化させる<転識得智>と、末那識を転じて平等性智を得る必要がある。正しい教えを繰り返し聞くことをせよ。自と他と行為との三つを分別しない清浄な智慧である「無分別智」の火を燃やせ。

 心の深層にある阿頼耶識は、「宇宙を形成する根本心」であり、過去の業の結果を貯蔵し、現在未来すべての存在を生じ、肉体をつくり維持し、自然をつくり認識し、生死輪廻(しょうじりんね)の主体となる。

 表層心は深層心たる阿頼耶識を濁していく。 

 ことばが一切をつくりだしており、つくりだされた「もの」は本来存在しない。唯識はすなわちただ名だけがある、<唯名>でもある。

 仏教は身体を「有根身」(うこんじん)という、根とは感覚器官のことである。

 ――仏教はもともと縁起的立場から、身体があるのは心があるからであり、心があるのは身体があるからであるという相依関係で両者をとらえますから、心の浄化は身体のあり方から入っていかなければならないと考えるのです。

 威儀即仏法……威儀とは身体のあり方、道元のことばであり、「仏法の説く真理は、どこか遠くにあるのではなく、一瞬一瞬の立ち居振る舞いの中にある」という考えである。

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 自分というものは存在しないが、自分の生を解決するだけではいけない。他人を救わなければならない、という菩薩への道が示されているがこれは興味がない。

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 唯識の実践

 人人唯識……一人一宇宙だから他人を思いやれ

 唯識無境、唯識所変……「自分」と「もの」への執着をなくせ

 念……静かに座れ

 阿頼耶識縁起……表層の行為は深層の阿頼耶識に影響を与える、ひとつひとつの行為を大切にせよ

 われわれは生かされている

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 6年ぶりにメモを読み直して、相変わらず何を言っているかさっぱりわからない。

 

やさしい唯識―心の秘密を解く (NHKライブラリー)

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