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the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『日本の近代5 政党から軍部へ』北岡伸一

 細かい事実が多すぎて、大筋を追うのに苦労する。流れをつかむのも重要だが、小さなエピソードにも魅力がある。

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 本書は1924年(大正13年)の護憲三派内閣の成立から1941年(昭和16年)の日米開戦までを対象とする。比較的進歩的な1920年代の大正と、軍部の影響が色濃くなった1930年代、昭和初期がおもな焦点である。

 本書はおもに政治エリートの動きを追う。

 人は自分の利益にしたがって行動するが「何が利益であり、何が不利益であるかを見抜くことは簡単ではない」。利益不利益をかんがえる枠組みがイデオロギー、観念であり、この時代で特に重要なのが「自由経済統制経済か、英米との協調か否か、そして天皇機関説か否か」などだった。

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 政党政治

 宮中をあやつることができた元老山県有朋も、政党の原敬も、宮中某重大事件を御することはできなかった。二人はほぼ同時期に死に、日本からは強固な指導者がいなくなる。原は1921年、ワシントン条約に調印し、「現実的な親米路線」を実現させるがまもなく暗殺される。

 つづく政友会の高橋是清内閣がすぐに崩れると首班に指名されたのは加藤友三郎だった。加藤が病死すると1923年山本権兵衛がふたたび政権をとる。このとき関東大震災がおこり、甚大な被害が発生する。

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 後継首班の指名は、いつも西園寺公望と内大臣牧野伸顕がおこなっている。

 山本内閣が倒れ、貴族的官僚的な清浦圭吾内閣がつくられると、政友会、憲政会、革新倶楽部護憲三派として政党内閣成立をめざす。政友会において、仲間割れにより離党した政治家が政友本党をつくる。

 普選の結果、憲政会が第一党となり、加藤高明総裁に組閣の大命がくだる。加藤高明のほか、政友会から高橋是清革新倶楽部から犬養毅が入閣する。加藤内閣は普通選挙法と治安維持法を制定する。治安維持法は、共産党を非合法とするものである。

 高橋が政友会総裁を辞し、かわって長州軍人の田中義一が総裁となる。政友会は政権交代を狙って内閣不一致、総辞職にもちこむが失敗、第二次加藤内閣となる。加藤が死ぬと憲政会の若槻礼次郎が組閣する。しかし若槻首相と幣原外省は、政友会から中国問題(蒋介石の北伐軍が進軍していた)をめぐって攻撃をうけ総辞職、つづいて田中義一が首相となる。

 1927年、外相を兼任した田中義一は第一次山東出兵をおこなう。また、金融恐慌処理のため2日間のモラトリアムを実施する。大陸政策を重視した田中は東方会議をひらき、「中国においては蒋介石による中国の統一を妨害せず……満蒙については、張作霖を積極的に援助して、日本の権益を守るだけでなくさらに発展させる」ことを決定する。1928年第二次山東出兵をおこなうが国民党との軍事衝突をおこしてしまう(済南事件)。

 同年、国民党の威力を評価する関東軍の河本大作が張作霖を爆殺する。この件の処罰に関して、田中は天皇の機嫌を損ね、総辞職する。

 この時期、共産党はじめとする無産政党がいくつも立てられるが、弾圧により転向者も数多く生まれる。

 田中につづいて民政党浜口雄幸に組閣の大命がくだり、幣原外省、井上準之助蔵相となる。問題は金解禁と緊縮財政だった。2つの政策は運悪く世界恐慌と重なり、大不況に見舞われ、とくに農村は貧窮する。

 浜口はロンドン会議で対米七割の海軍軍縮を決定するが、加藤寛治軍令部長は反対する。これをみて政友会が、政府が軍編成に口をだすのは統帥権干犯だとして攻め立てる。結果、浜口は狙撃され、海軍は海軍省中心とする条約派と、軍令部中心の艦隊派に分かれ、条約反対の艦隊派が以後実権を握る。

 大正から昭和初期に、和風建築の基礎ができ、また都市中心に鉄道網が発達し、ラジオ、大新聞が発展した。レコードやピアニストの来日、野球、映画、スポーツなどもこの頃から普及した。

 戦前はいまの日本とは比べ物にならぬ格差社会であり、企業は株主本位だった。

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 非常時

 1920年代、陸軍の若手は反長州に傾き、長州閥を試験で落とし排除した。軍の近代化と総動員体制の整備をめざす宇垣一成のもとに、永田鉄山を中心とする会派と石原莞爾らさらに若い会派が集まり、一夕会が結成された。この一夕会と、出世街道をはずれた参謀本部支那課の軍人とが、昭和陸軍の起源である。

 満州事変を計画していた石原莞爾関東軍板垣征四郎は、朝鮮の事件などで世論が盛り上がっているのを察し、1931年、柳条湖で満鉄を爆破し、中国軍を攻撃し、満州事変をおこす。一方、海軍は翌年1月、上海で日本人が襲われたとして海軍陸戦隊を上陸させ交戦する(上海事変)。浜口が倒れたあとの第二次若槻内閣は、この動きをけん制しようとするが、政友会と民政党の対立から思うようにいかず、解散、犬養内閣が成立する。犬養は一連の事変を「若手の暴走、軍紀の乱れ」として処罰を予定していたが五・一五で暗殺される。つづいて西園寺は斎藤実を後継首班に指名する。

 斎藤実内閣のとき、松岡外相国際連盟を脱退する。33年、タンクー停戦協定によって満州事変は終結する。つづいて岡田内閣、それから広田内閣と政権は移る。梅津や土肥原ら関東軍と天津軍により華北親日化工作がすすめられる。

 犬養から岡田内閣まで、荒木貞夫精神主義的な皇道派が陸軍人事を掌握するが、やがて支持を失う。

 戦前の日本はテロとクーデターに相次いで見舞われた。

 皇道派の衰退に憤った、狂的な面のある相沢三郎中佐が、1935年永田軍務局長を斬殺する。永田は統制派の中心であり、皇道派軍紀の乱れであるとして改革をおこなおうとしていた。

 同時期に天皇機関説事件が紛糾し、美濃部達吉が司法省を辞職させられる。美濃部攻撃は軍と政友会によっておこなわれた。

 1936年2月26日、皇道派青年将校がクーデターをおこし永田町一帯を制圧するが、3日後には鎮圧される。真崎は青年将校の行動に乗じて維新内閣成立をこころみるが、天皇が激怒し反乱はおわる。

 満州事変上海事変と緊張はつづくが、この時期はまだ社会に余裕があり、都市の文化も発展していた。34、35年あたりから社会的な閉塞感が強まり、精神主義がはやりだした。英語教育削減、パパ・ママ呼称の廃止がとなえられ、歌謡曲の歌詞にも横槍がはいるようになる。

 自動車はフォードやGMの輸入が主流だったが大震災を機に見直され、1935年頃には国産自動車の性能もましになる。

 ――自動車国産化の決定は、アウタルキー路線が国際協調路線に対して勝利したことを意味しており、陸軍と革新官僚が政党・財閥などの既成勢力に対して勝利したことを意味していた。

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 戦時

 二二六事件後、吉田茂を参謀にして広田弘毅が組閣をこころみるが陸軍の干渉をうけて政党の力は生かせなかった。軍部の力をおさえることはできず、浜田の切腹問答をきっかけに総辞職する。西園寺は宇垣を指名するが陸軍は宇垣を嫌い、大臣を指名せず流産内閣となる。つづいて林が指名される。林内閣のあいだに日本の中国政策は軟化し、一方中国の対日態度は硬化する。林のつぎに近衛文麿が首相になる。

 1937年、第二次国共合作ののち、7月、盧溝橋事件が発生し、日中戦争がはじまる。追加派兵の責任者は陸軍省杉山元陸相、近衛首相、広田外相であり、いっぽう、不拡大派は石原ら参謀本部だった。

 近衛は和平をこころみるがうまくいかず、1938年「国民政府を対手とせず」と声明を出してしまう。この外交途絶が最大の愚行となった。また、国家総動員法がつくられ、いくつもあった電力会社が日本発送電株式会社という国策会社に統合される。

 平沼騏一郎阿部信行米内光政、第二次近衛文麿内閣とつづく。日中戦争がすすみ、対米関係も悪化、ソ連も硬化し、ヨーロッパではドイツが戦争を開始した。瑣末な精神動員がおこなわれた。

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日本の近代 5 政党から軍部へ―1924?1941

日本の近代 5 政党から軍部へ―1924?1941