うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『レーニンの秘密』ドミートリー・ヴォルコゴーノフ

 元ソ連軍人の歴史家によるレーニンの伝記で、英訳で買ったほかの本と同様評価が高い。ポルポト共産党史を読むことで権力闘争を勉強したらしい。

  ***

 スターリンが批判されてからソ連が崩壊するまで、レーニンは聖人でありつづけた。人道観念の欠落したレーニンの指令書などが解禁された時期に、この伝記は書かれた。

 レーニンはユダヤ、ドイツ、スウェーデン、アジア系とさまざまな民族の混血だが、ソ連はこれを隠匿した。幼少時から利発で活発だったレーニンは、家族の中でも溺愛され、外でも自信に満ちていた。ところが、尊敬していた兄アレクサンドルがアレクサンドル三世へのテロ計画にかかわり絞首刑になると、弟レーニンは高等教育への道を閉ざされる。大学への入学を拒否され続けたこのときから、レーニンの心には体制への憎悪が蓄積していったとおもわれる。

 レーニンは徹底的な実利主義者(プラグマティスト)だった。彼には道徳的基準、道義心といったものがなく、共産主義に役立つかどうかが唯一の道義的基準といえた。この方針は党にも受け継がれた。しかし、独裁者としての非道さとは別に、家庭においては暖かい人間だったという。妻の安那・ナジェージダ・クループスカヤおよび親友の女アルマンドにたいしては愛情をそそいだ。

 レーニンは一度も生活のために働いたことがなかった。レーニン家は年金とファンドで潤っており、海外旅行やリゾート地での休養を満喫することができた。共産党パトロンや実業家、富豪から寄付・援助をうけていた。党の資金繰りは、レーニンが一括して引き受け、ほかの党員には知らされなかった。

 ボリシェヴィキの自主的な資金調達には、銀行強盗が用いられた。この犯罪を担当していたのがスターリンである。

 レーニンは一見すると小柄な農民のような風体で、狼のような凶眼をもっていた。激昂しやすく、あらゆる人間を軽蔑し、またロシア人をバカ呼ばわりしていた。気力とエネルギーに満ちており、政敵をゆたかな罵倒語で攻撃した。

  ***

 革命の以前から、レーニンにとって、マルクス主義とは革命のことを指していた。革命は強制とテロルによって遂行されなければならない、と早くから彼は表明していた。革命達成のためには、ドイツとの協力も、ロシアの敗北も肯定される。

 暴力とテロルを肯定するボリシェヴィキが台頭する上で、さまざまな穏健派が退けられた。立憲君主政体への移行を試みるニコライ二世と臨時政府はレーニンによって否定された。民主主義的な党の運営を志すメンシェヴィキのマルトフや、レーニンよりも年長であるマルクス主義者プレハーノフも表舞台から退場させられた。道義的価値観を重視する者、暴力とテロルに否定的な者、民主主義的要素を重視するものはすべてボリシェヴィキによって排斥された。

  ***

 第一次大戦がはじまったとき、多くの左派政党活動家は愛国心にかられ戦争に賛成した。これはワイマール共和国でも同じだった。ただ、レーニンだけが、戦争を、革命のまたとないチャンスと考えた。レーニンとドイツ参謀本部との関係が明らかになったのは後年である。レーニンは、懐刀ガネツキーと、共産主義者兼実業家のアレクサンドル・パルヴスを通してドイツから多額の資金援助を受け、党の宣伝などに用いた。ソ連体制において、ボリシェヴィキがロシアの敗北に手を貸した、ドイツと手を組んだという事実は隠蔽されてきた。

 「革命の商人」パルヴスはレーニンの死後まもなく病死した。ガネツキーは「ボリシェヴィキの秘密の金づるについてあまりにも多くを知りすぎていた」ため、NKVD(内務人民委員部)に逮捕され、拷問をうけ、1937年にスターリンの一存によって妻子ともども銃殺された。

 バランスをとることは時には有効だが、長期的には無意味である。ケレンスキーは、ゴルバチョフと同じく、ボリシェヴィキと白衛軍とのあいだでバランスをとろうとしてどちらの支持も失い、二月革命から八ヶ月でそそくさと退場した。民主的手続き、議会政治を重視したケレンスキーボリシェヴィキの強硬手段によって退けられた。

 農民にたいする「土地と平和」の約束と同様、彼らの政治家としての実力を示すエピソードがある。レーニンらの権力奪取を警戒した臨時政府は、三日間のデモ禁止を通告した。レーニンは「市民の権利」を奪うのは許されない、と抗議した。数ヵ月後、レーニンはあらゆる種類の会合、集団活動を禁止した。

 コルニーロフの反乱が頓挫し、ケレンスキーが求心力を失うと、ボリシェヴィキ武力行使は現実的になった。レーニンに反対し、議会手続きにのっとるべきだと主張したジノヴィエフカーメネフは、レーニンから罵倒された。スターリンによる粛清の原因となったのが、この意見の衝突である。

 ――「人民委員」や「全権委員」のような言葉は今やロシア人の生活に入り込んできて、まもなくコミッサールとチェーカーの役人がソヴィエト体制そのものを表わすようにさえなった。

 クーデターによって十月革命が成立してからの、指導者としてのレーニンの仕事ぶりが描かれる。メンシェヴィキら穏健派はソヴィエトを離脱して参謀総長らにボリシェヴィキ取締りを求める。戦争から内戦への移行こそ、レーニンの目論見だった。

 ――彼は並はずれた想像力と幅広い理論的知識の持ち主だったにもかかわらず、さまざまな国家の機能についての知識は浅薄だったため、彼の出す命令や勧告は支離滅裂だったり、曖昧なものが多い。

 公約であった憲法制定会議を待ち望む大衆におされ、レーニンはしぶしぶ会議を開催した。ところが選挙の結果ボリシェヴィキは少数派となり、エスエル党が与党になってしまった。レーニンらはふたたび軍事力の行使に踏み込んだ。憲法制定会議は制圧された。

  ***

 著者は、レーニンの人格そのものに冷酷な要素があったわけではなく、「指導者として」冷酷な人間だったのではないか、と考える。レーニンが暴力的手法を容認した理由に、山積みの課題によるパニック、ボリシェヴィキの冷酷無情・階級憎悪・マキアヴェリズム的要素をあげている。

 1918年3月、ボリシェヴィキが締結したブレスト=リトフスク条約は、結果的にウクライナを失う屈辱的な講話となった。帝政軍はすでに軍事力として機能しないため、独露の国境線はドイツが一元的に決めることができた。ドイツ領に編入されてしまう地方のボリシェヴィキに対して、レーニンは「ドイツもすぐに革命が起こる」と言い繕うしかなかった。

 ブレスト=リトフスク条約での批難によってロシア内戦がはじまると、トロツキー赤軍を組織し、指導した。各地に散らばるコルチャーク提督やデニーキン将軍、ユジェニッチ将軍ら白衛軍に対して、実際に戦略を立てたのはトロツキーである。レーニンは別荘やクレムリンから命令を発するだけだった。

 ――自らは、戦争の恐ろしさを目の当たりにすることのないクレムリンや、モスクワ郊外の快適な別荘にとどまっていることを望んでおきながら、レーニンの発する命令や指示はますます残酷さをつのらせていった。

 一般大衆の支持を得ていないボリシェヴィキが勝利した理由に、白衛軍に明確な目的がなかったことがあげられる。白衛軍は赤軍と同程度、地域住民を迫害し略奪した。両軍のあいだで反ユダヤ主義がはびこり、ポグロムがおこなわれた。相次ぐ虐殺の報に、レーニンは、敵はユダヤ人ではなく資本家である、との声明を発したがとめることはできなかった。

 皇帝一族は「特殊目的の家」に監禁されていたが、秘密裏に銃殺された。レーニン暗殺未遂事件がおこってからは、大規模テロルのみならず、エスエル党員などへの個人テロルも活発になった。スターリンの粛清の基盤を構築したのはレーニンである。彼はチェーカーを擁護し、指導者個人との結びつきを強固にした。

  ***

 レーニンは自分の後継者になりうる人物としてトロツキースターリンジノヴィエフカーメネフブハーリン、ピャタコフをあげた。スターリンがトップの座につくと、残りの5人はすべて抹殺された。

 トロツキーはとくにクーデター・内戦時に行政手腕を発揮し、レーニンにつぐ第2位となった。内戦が終結すると彼は独創的な政治評論家のごとき位置におさまった。彼は自信過剰で、周囲から無言の反感をうけるような性格だった。彼が休暇をとってのんきに過ごしているあいだ、スターリンは小物役人たちを自分の派閥にとりこむことに夢中になった。

 カーメネフジノヴィエフはどちらもレーニンの親友、古くからの同志として活躍した。このためスターリンによって逮捕され、キーロフ暗殺の罪をでっちあげられて処刑された。ブハーリンは優れた知識人、マルクス主義者であり、党内では穏健であり、早い時期から自分たちの創設した官僚機構、国家機関の危険に気がついていた。

 彼は、ジェルジンスキー率いるチェーカーにたいし、もっと法的手続きを重視すべきでは、と忠告した。

 トロツキー以外のどの幹部も、スターリンによって逮捕されると必死に嘆願している。スターリンを褒めちぎり、賛美し、自分に着せられた罪をどんなに反省しているかを手紙に書いた。こうした涙ぐましい努力はすべて無駄になった。スターリンは最初からレーニンの同志を消すつもりだったのである。

 スターリンは、レーニンの遺産・文書を一元的に管理することで、神格化されたレーニンを自分に都合のいいように操るシステムをつくりだした。彼にとっては死んだレーニンこそ重要だった。

 政治局(ポリトビューロー)は1917年10月につくられた。政治局の幹部のだれも政府の仕事の経験がなかった。1922年までに、政治局は、「事実上は、あらゆる問題の意思決定機関になっていた」。政治局の権力は無制限である。

 レーニンは権力を党に集中させ、スターリンはさらに権力を個人に集中させた。スターリン時代には、政治局は「各局員がたがいに競い合って、この「首領」に何かしら新しいほめ言葉を発明しようと必死になっているまったく卑屈な組織」だった。フルシチョフの批判によって露骨な銃殺・処刑はおこなわれなくなったが、政治局を頂点としたピラミッド型官僚機構は健在だった。

  ***

 レーニン体制下で悲惨な目にあった人間は広範にわたる。「前衛隊」たる労働者は、ソヴィエトの一元的管理体制によってストライキ権や昇給の交渉権を失われた。レーニン、スターリン時代を通して、労働力確保のために収容所がつくられ、次々と人間が送り込まれた。

 スターリン時代を経て、ソヴィエトは穀物輸入国になってしまった。内戦中の飢饉では、膨大な数の農民が餓死している一方、穀物輸出政策が決定された。アメリカによる食糧支援は「ブルジョワの陰謀」として妨害された。農民の反乱は徹底的に弾圧された。

 レーニン、スターリンともに、国際的な名声のある作家や芸術家の扱いは慎重だった。ソ連幹部は国際世論を重視していたようで、に命拾いした芸術家が何人もいる。ロシア正教はレーニン時代に徹底的な弾圧をうけた。聖職者が虐殺され、教会資産は強奪された。そもそも、レーニンは資産強奪によってでなければ革命は達成できないと考えていたようだ。

 十月革命前に設立されたコミンテルンは、ソ連の国外工作組織となった。コミンテルンや、各国共産党への資金は、モスクワから秘密裏に回されたものだった。スターリン時代になると、NKVDはコミンテルンを(極秘に)取り込み、スパイを育成した。ゾルゲ事件は、コミンテルンのスパイのなかでも悪名高いもののひとつである。
第二次世界大戦後、スターリンは世界革命をあきらめたのか、コミンテルンも下火になる。

  ***

 レーニンは脳をやられて死んだ。病気が進行し、要介護状態となったレーニンの説明のあと、話はスターリン以後の共産党トップに移る。

 著者が実際に仕事をしていた時代のためか、皮肉がおもしろい。ブレジネフは凡人で健康状態が芳しくなく、辞職後すぐに死ぬ。チェルネンコは就任後まもなく死ぬ。アンドローポフは前の二人より優秀だったが死ぬ。つづいたのが、ゴルバチョフである。

 ――国民は、アンドローポフが舞台を去るとともに、病気がちな老いぼれ政治家たちのパレードに終止符が打たれることを期待していた。しかし、政治局の考え方は国民とはちがっていた。

 ――今回は保守的な将軍たちでさえ、またもや老人が任命されて、葬式の時代がつづくのではないかという思いでいっぱいだった。

 ――書記長になる前のゴルバチョフは、典型的な〝イデオロギー戦士〟らしく、上司の意見に注意深く調子を合わせていた。

  ***

 ソ連が崩壊するまで、共産主義者にとってレーニンは希望だった。

 本書は、共産主義が体現した非人道的な行為、非合理的な政策、悪習の数々がレーニン起源であったことを明らかにする。

 

レーニンの秘密〈上〉

レーニンの秘密〈上〉