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the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『イスラーム世界の創造』羽田正

 「イスラーム世界」という概念そのものを問う本。イスラーム研究の歴史、受容の過程などが問題になっている。

 イスラーム世界の定義は錯綜しており、大別すると次の4つになる……理念的な意味でのムスリム共同体、イスラーム諸国会議機構、住民の多数がムスリムである地域、イスラーム法による統治のおこなわれている地域。

 このような不明瞭なことば「イスラーム世界」を用いて国際情勢を分析するのには無理がある、と著者はいう。本書の目的は、「イスラーム世界」の概念がどうやって成立したのかを明らかにし、また日本とヨーロッパでの意味の違いを検討することである。また、高校教育にあるような「イスラーム世界」通史を再検討し、改革することを主張する。

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 1 前近代ムスリムの世界像と世界史認識

 西ヨーロッパの地理的概念が広まる以前、日本、中国、インド、ラテン・キリスト教圏はそれぞれ独自の地理概念をもっていた。本項では各時代のアラビア語、ペルシア語文献をあげて、前近代ムスリムの世界像を論じる。

 九、十世紀、アッバース朝時代のムスリムの地理観は、古代ギリシア地理学、とくにプトレマイオス地理学に大きな影響を受けていた。また、イスラーム世界と非イスラーム世界を区別する方針はあまり見られず、ヨーロッパ地域に関する情報は総じて少ない。

 十五、六世紀までを通して、イスラーム教徒は西方ヨーロッパにも相応の関心を抱いていた。むしろ、東アジアや東南アジアへの無関心が顕著である。また、「イスラーム対ヨーロッパ」という構図は十九世紀にはじめて現れたものである。

 現在、わが国の世界史において教えられているような「イスラーム世界」史の叙述は、アッバース朝時代のタバリーやその後のイブン・アスィールの歴史書からはじまっている。タバリーの関心はムハンマドの時代と正統カリフ、およびウマイヤ朝アッバース朝の政治史・軍事史であり、ここにはイスラームの地方政権(後ウマイヤ朝やサーマーン朝)の叙述は存在しない。十三世紀のイブン・アスィールにおいては、タバリーの記述を踏襲しながらも、アッバース朝と同様に地方のイスラーム政権についても叙述がおこなわれている。両者とも、存在するのは「イスラーム世界」つまりイスラーム法統治の王朝だけであり、非イスラーム世界についての言及はまったくない。

 ペルシア語の歴史書は、アラビア語歴史書に依拠しながらも、「イスラーム世界」の語をペルシア語文化圏を示す意味で使う特徴がある。

 ムスリム歴史家の基本的認識は、総じて「クルアーン」に基づいている。

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 2 近代ヨーロッパと「イスラーム世界」

 サイード『オリエンタリズム』を例にあげて、学者たちが、いかに「イスラーム世界対ヨーロッパ」という対決の図にとらわれているかを指摘する。

 デルブロ『東方全書』ではトルコ、ペルシア、ムガルの項はあるが、個別に扱われており、「この三つの王朝がイスラームないしはマホメット教という要素によってまとめられ一つの特徴的な空間を構成するとは見なされていない」。

 ギボン『ローマ帝国衰亡史』では、ムハンマド以降のアラブ人の詳細な記述がみられるが、ギボンの区分はイタリア人、ギリシア人、アラブ人という「民族」、また地理的にはアジアとヨーロッパという区分であり、ムスリムをまとめて「イスラーム世界」と考えることはなかった。

 一方、ルナンは科学精神と進歩の観念を生み出したキリスト教圏、つまりヨーロッパと対比させて、停滞の象徴としてイスラーム教を排撃している。いわく、アヴィセンナアヴェロエス、アル・ファーラビーなど著名なイスラーム哲学者はみな正確にはペルシア人であり、イスラームおよびアラブ人は常に科学や哲学を弾圧する側に立っていたと。

 ルナンの視点はまさにイスラーム対ヨーロッパの構図をとる。十八世紀のギボンと、十九世紀のルナンとのあいだに、イスラーム認識の大きな変化があった、と著者は主張する。

 この変化を説明する原因のひとつとしてあげられているのが、十九世紀ヨーロッパにおける社会の世俗化である。キリスト教の支配がゆるみ、民主主義、自由、平等、科学、進歩など自前の価値観に自信をもったヨーロッパ人たちの目には、宗教的なイ

スラーム社会はひどく後進的に映ったのではないか。

 18世紀、文献学的手法、科学的手法によって聖書を研究する学問が発達した。19世紀には、この方法を「クルアーン」や他のオリエント、アジアの文献にも応用しようという機運が高まり、古代文字や東洋の文献を解読する「東洋学」がフランスで生まれた。やがて、ドイツから「イスラーム世界」研究の潮流が生まれた。ミューラーが著した『東洋と西洋のイスラーム』は、現在のイスラーム史とほぼ同様の視点に基づいた斬新な史書で、各国に影響を与えた。

 ――フランス、イギリス、ドイツ、それにロシアなどでは、十九世紀前半から遅くとも二〇世紀の初めまでに、「ヨーロッパ」とこれに対になる「イスラーム世界」という空間概念が創造され、受け入れられて、その枠組みに従って、歴史を叙述しようという試みが行われるようになったのである。

 現代中東諸国における歴史教育は、国家・民族単位中心の歴史叙述であり、「イスラーム世界」という枠組みは重視されていない。

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 3 日本における「イスラーム世界」概念の受容と展開

 歴史教科書においては、江戸時代以前のものはヨーロッパの文献の引き写しであり、明治以後も基本的にはヨーロッパの歴史書の世界像を用いている。宮崎市定いわく、「今日のように世界を大まかに両分して、東洋・西洋とよぶ方法は明治時代の日本人の発明であり、それは学校における歴史教育の必要によって促進されたのであった」。

 「東洋史」の概念がはっきり現れたのは日清戦争後である。ところが昭和初期まで、西アジアは西洋史のほうに含まれていた。この時点ではイスラーム世界という概念はまったく存在しない。

 日露戦争後、ロシアからタタールムスリム満州方面にやってきて、また日本をも訪れる。パン・イスラミズム運動家のタタール人は、日本の軍部やアジア主義者と面会し、連帯を説いた。以後、タタール人が日本に移住することも多くなり、イスラーム研究、トルコ研究がはじめられる。「回教圏」のことばが知られるようになるのは1936年頃という。

 日本での回教圏研究は、パン・イスラミズム運動や当時の日本の政策の影響を色濃く受けている。ここでいう「回教圏」は、南洋、満州支那も含まれていて、「イスラム教徒の多数居住する地域」という意味をふくむ。

 1939年には大川周明が回教研究書を刊行する。

 戦争後期の学校の歴史教科書では、アメリカとヨーロッパの項が削除されている。
戦後のイスラーム世界研究は、経済的関心から、南洋・支那から中東地域に比重が移る。高校で世界史を教える国は珍しいが、世界史においても、戦前に確立したイスラーム世界概念がはっきりと示されている。

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 終論

 社会経済をも強く規定するイスラーム教から、イスラーム世界というくくりが生み出された。ところが、近現代になりイスラーム国家の世俗化が進むと、「イスラーム法による統治のおこなわれている国」は消滅した。イスラーム世界とは前近代までのものであり、現代のイスラーム世界、というものは存在せず、学校教育においても教えられていない。

 著者はイスラーム世界というくくりの廃止を主張する。この概念はもとは十九世紀ヨーロッパの学者のイデオロギーである。逆に、パン・イスラミズム運動やイスラーム主義者のイデオロギーでもある。よって、普遍的な世界史教育の場に導入するのは適切でない。

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 つまり「イスラーム世界」とはイデオロギーを含んだ、あまり科学的でないことばである、と主張したいようだ。しかし、本書を読みながら、頭の中で何度も「イスラーム世界」「イスラーム圏」ということばが思い浮かび、この概念なしにはものが考えられない状態にあることに気づいた。イスラーム教徒のつくりだす、イスラーム世界というイメージはわれわれの脳内に浸透している。

 地形を機械的に分割するのがいいのだろうか。それとも、国民国家にもとづいてエリアを分割するのがいいのだろうか。といった提案は最後まで読んでも見られなかった。

 

イスラーム世界の創造 (東洋叢書)

イスラーム世界の創造 (東洋叢書)