うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『The Boer War』Thomas Pakenham

 ボーア戦争はイギリスに深い傷を残した。この戦争を理解するための四つのポイントは、南アフリカの富豪と英国政府の隠された関係、Sir Redvers Bullerブラーという軍人の果たした役割、南アフリカの黒人たち、それにボーア市民の受けた被害である。

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 1 ミルナーの戦争

 ボーア人は一六〇〇年代はじめにオランダやフランスなどから、喜望峰に移住してきた新教徒やユグノーの末裔で、ヨーロッパへの憎悪にとりつかれていた。彼らはオランダ語の変種であるアフリカーンスをしゃべり、自らをアフリカーナーAfrikanerと呼んだ。なかでももっとも貧しい農民、牧場主たちはボーア人Boerと呼ばれ、イギリスの進出にたいし反感を抱いた。

 1895年、ボーア戦争の前に、南アフリカの鉱山経営者たちとセシル・ローズの考案し、ジェイムソンのおこなったジェイムソン蜂起Jameson Raidがある。ジェイムソンの一隊はトランスバールTransvaal Republicとオレンジ自由国Orange Free Stateの領有のためヨハネスブルグへ入城したが現地の英国人は呼応せず、蜂起は失敗した。

 アルフレッド・ミルナーAlfred Milnerは南アフリカを管理する高等弁務官Highly Commissionerとして赴任してきた。

 問題のボーア戦争以前、十九世紀中頃、ボーア人の二国家とイギリスの東ケープは二度戦争をおこなったが、そのたびイギリス本国の人道主義政策、経済重視政策に阻まれて、植民地の軍は撤退を余儀なくされた。この戦争以来、トランスバールと自由国はボーア人の自治にゆだねられた。

 しかし、最大多数のアフリカ人、ボーア人、イギリス人、そしてイギリス本国の対立はおさまらなかった。

 ジェイムソン蜂起のとき、南アフリカ高等弁務官ミルナーで、植民地省大臣はジョー・チェンバレンChamberlainだった。トランスバールの大統領クルーガーKrugerは、粗暴なため、ヨーロッパ人には蛇蝎のごとく嫌われていた。彼はドイツ系の人物で、ボーア人のGreat Trek内陸部への大移動のなか、聖書と猟銃によって育てられる。

 第一次ボーア戦争のとき指揮官として活躍し、トランスバールの初代大統領となった。やがて彼とはタイプの違う、都会育ちの若手将校ジュベルに攻撃されるが、ジェイムソン蜂起によって、オレンジ自由国を含めたボーア人は、クルーガーのもとに一致団結する。彼とジュベルはトランスバール軍隊の改革をおこない、最新鋭の装備を整えた。

 十九世紀末、炭鉱、金鉱の発見により南アフリカは世界でもっとも利益のあがる土地となった。炭鉱労働に従事する移民Uitlander(Outlanderの意味)が殺到し、すでに定住しているボーア人を数で圧倒してしまう。ヨハネスブルグケープタウンは、大英帝国の植民地の風景となんら変わりなくなる。しかし、移民への税金や差別待遇はかわらなかった。そこで、ウィトランダーたちを煽って白人国家を樹立させようとしたのがジェイムソンであり、その背後にいるセシル・ローズだった。

 この方法が失敗すると、帝国政府の直接の介入が必要だという気分が高まった。

 南アフリカ政府とイギリス本国との特電などを通して、チェンバレン植民地相は戦争は避けられないとの見方を強めた。ミルナーは英雄になるチャンスをつかもうと、トランスバールとの妥協策を排除することにつとめた。

 一九八九年の五月、南アフリカは冬だったが、クルーガー大統領とミルナー高等弁務官は、オレンジ自由国首相Steynの仲介で、ブルームフォンテインにて会議をおこなう。この会議は決裂する。クルーガーの片腕、ヤン・スマッツJan Smutsはセシル・ローズに幻滅してデ・ビアス社を去ってから、大統領のもとで働いていた。

 戦時相ランズダウン、陸軍のなかの、ウォルズリーを筆頭にレドバース・ブラーなどをしたがえるアフリカ派閥と、対立するインド派閥などの説明。いくらの兵が必要か、要請すべきかというやりとりが南アフリカと本国とのあいだで交わされる。戦争の見通しは高まり、ケープ国やナタル国(イギリス系の政府)の排外愛国主義が煽られていく。

 戦争をおこそうという明確な意志をもっていたのは、ミルナーと彼の友人である富豪……アルフレッド・ベイト、ヴェルナーWernher、フィッツパトリックFitzpatrickである。ベイトとヴェルナーはトランスバールの炭鉱利権にかかわっていた。

 クルーガー大統領は妥協しようとするが、これはミルナーにとって不都合だった。彼はケープ植民地やナタル、そして本国の新聞社に号令をかけ、戦争を煽った。ついに植民地相チェンバレンは内閣首脳会談で戦争やむなしとの結論を出す。ソールズベリーSalisbury首相も承認し、インドから「インド派閥」のホワイト将軍が派遣される。最高指揮官はウォルズリーら「アフリカ派」の若手レドバース・ブラーに決定される。

 ボーイスカウト創設者のバーデン・パウエルBaden Powellも、マフェキング担当としてアフリカに派遣される。

 ミルナーとレドバース・ブラーをのぞいて、英国側はボーア人の戦力を過小評価していた。そもそも、はじめは恫喝によってクルーガーがすぐに屈するだろうという予測が(セシル・ローズなどを中心に)されていたのだ。この見通しははずれ、クルーガーおよびヤン・スマッツは最後通告および先制攻撃に踏み切る。

 疎開するボーア難民がごったがえし、農民のかっこうにモーゼル銃をぶらさげたボーア兵士があらわれる。バーデン・パウエル率いるローデシア兵が守備についている国境のマフェキング、および、世界一のダイヤモンド鉱山があるキンバリーが、戦略的な要所だった。

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 2 ブラーの失敗

 1899年10月20日、オレンジ自由国およびトランスバール側から、ナタール国の守備隊駐屯地ダンディーにむけてボーア軍が侵入する。ダンディー手前の丘で戦闘がはじまるが、英軍は自軍の歩兵を砲撃してしまう。野砲の性能はボーアのほうが優れていた。メイヤー将軍ひきいるボーア軍が撤退したとき、イギリス側は、シモン将軍はじめとする多量の将校を失った。

 ナタールトランスバールの国境ダンディーは包囲され、ホワイト将軍が司令部を構えるレイディスミスも撤退が間に合わず包囲される。さらに、ケープ植民地側の国境の町、キンバリーとマフェキングにも危機がおよぶ。

 緒戦での将校のあいつぐ戦死と撤退、降伏はなぜおこったのか。まず、半世紀ほどイギリスの軍人が大戦争を経験していなかったことがある。ボーア戦争以前におこなわれた戦争は、どれも南アフリカやエジプト、インドの、未組織の現地人を相手にした小規模なものだった。これがボーア軍を前に、英軍が敗北を重ねた理由である。

 ボーア側も、ナタール国境での緒戦の勝利を生かすことができなかった。

 キンバリーにはセシル・ローズとククウィッチ将軍がいたが、ボーア軍によって包囲された。セシル・ローズはジェイムソン蜂起の失脚以来、デ・ビアス社所有のダイヤモンド鉱山を擁するこの町に住んでいた。キンバリー守備隊や市民は、砲撃によって多大な損害をこうむる。さらに進軍した英軍はモダ河Modder Riverの岸で三〇〇〇人のボーア兵に待ち伏せされ、一斉射撃をうける。

 英軍の敗北の原因は、ナタールと同様、情報Intelligenceの不足と機動性の欠如だった。ボーア軍がほとんど騎兵だったのにたいし、英軍は数こそ多いが歩兵が主体であり、両軍はそれぞれ、鯨とそれに噛みつく小魚にたとえられている。

 南アフリカの平坦な地形と、射程距離の広いモーゼル銃、それに無煙火薬は、斥候を不可能にした。旧態依然の赤いコートを着た英軍将校はたびたび狙撃の的になった。ある将軍は、新しい戦争とは「敵が見えない戦争だ」と述懐している。

 モダ河の待ち伏せ攻撃はクース・デ・ラ・レイKoos De la Reyの優れた指揮によって成功したが、やがてMethuenメザン率いるの英軍におされ、自由国の兵は後退する。デ・ラ・レイの息子は戦死する。将軍は、臆病風にふかれて逃げたオレンジ自由国の兵を馬からおろし、前線に歩兵として立たせる。移動手段がなければ逃げることはできない。

 モダ河のたたかいの数日後に、ナタール国境、トゥゲラ山にむかって、英軍は夜襲をかける。しかし、ブラーら指揮官たちはボーア軍の正確な位置を把握していなかった。日の出とともに砲撃と銃撃の嵐にあい、歩兵は膠着する。蟻を払いのけるしぐさも、狙撃される原因となった。

 この二つの戦いはともに英軍が多数の死者を出しておわる。ナタール国境レイディスミスの東、コレンソColensoでも、トゥゲラ河の土手でボーア兵に待ち伏せされ損害を受ける。モーゼル銃だけでなく、ボーア軍の野砲も無煙なので、位置をつかむことができなかった。

 度重なる損害のために、この週は"Black Week"と呼ばれた。ブラーはナタール司令官の地位に左遷され、つづいてブラーとは異なるインド派閥の長、ロバーツ卿Lord Frederick Robertsが参謀総長の座につく。ロバーツの下には、同じくインドで活躍したキッチナーHoratio Kitchenerが参謀となる。ロバーツ卿の息子は、ブラーの率いるコレンソの戦いで戦死していた。

 戦術的敗北の理由は、開戦までに十分な兵を準備することができなかったこと、にもかかわらずナタール国境、ケープ国境という深部まで兵を進めてしまったことにあった。ナポレオン戦争と、インド反乱(Indian Mutiny, 「セポイの反乱」)以来、大規模な戦争を経験していなかった国民は、一〇〇〇人を超える英軍の死者にショックをうける。

 一方、ボーア軍も緒戦の勝利をうまく戦略的勝利にもっていくことができず、クルーガーら首脳は悩んでいた。クルーガーの望む戦略的勝利とは、有利な条件で講和を結ぶことである。しかし、国境での勝利は英国の態度を強硬にしてしまった。大統領は大陸で反アングロサクソン感情を煽り、ドイツは自国の商船を英国海軍に拿捕されて、国内で反英感情が盛り上がっていた。独英はこのとき海軍軍拡競争になだれこんでいた。それでも、ドイツはボーアを支援することはなかった。したがって、フランス、ロシアも様子見をつづけた。オランダは当然ボーア側だったが、軍事力をもっていなかった。

 ロバーツ卿とキッチナーの援軍が来る前に、ボーア軍はさらに勝利する必要があった。援軍はボーア軍の総数の2倍に達することになっていた。

 レイディスミスを包囲された英軍の兵が日記を残していて、それによれば、包囲戦とは退屈と失望そのものである。無煙火薬とライフル、野砲は防御側を有利にしてしまったため容易に攻めることができなくなった。レイディスミスでは来る日も来る日も塹壕にもぐってじっとする日がつづく。やがてボーア軍の攻撃が激化し、守備隊はコレンゾを超える死者を出す。

 トゥゲラ河をはさんで、丘を中心に両軍の攻防がつづく。包囲するボーア軍も、攻撃せずに待機しているうちに士気が下がる。兵士はやることもなく、昼寝や釣りをしてすごす。ブラーとその麾下ワレンWarren, ソニークラフトThorneycraftらはトゥゲラ河畔の丘Spion Kopを落とすことができなかった。近代戦に適応できなかったことが、ブラーの一連の敗戦の原因である、と著者は分析する。

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 3 ロバートの前進

 ロバーツ卿とキッチナー率いる三個師団およびジョン・フレンチFrenchの指揮する騎兵隊がついに到着し、セシル・ローズの篭城するキンバリー解放に向かった。この下には後の第一次大戦司令官ダグラス・ヘイグも含まれる。セシル・ローズは本国にたいし、キンバリーの解放を最優先にしなければボーアに降伏する、と脅していた。
この軍団は、将校も剣ではなく銃をもち、胸の徽章をつけていなかった。服もカーキ色の軍服に統一されていた。

 ロバーツ卿とキッチナー、それにジョン・フレンチの騎兵隊は、とくに騎兵隊が大きな被害を受けながらも無事キンバリーを解放する。キンバリーの包囲戦でボーア軍が用いたのは、古典的な戦術……飢えと病気だった。セシル・ローズの発見によって廃坑をシェルターとして使うことができた。

 デ・ビアスのアメリカ人技師ジョージ・ラブラムGeorge Labramは、自前の砲弾や監視塔、大砲ロング・セシルLong Cecilなど、数々の発明を包囲のなかでおこなって、皆を元気付けていた。しかし、彼はシェルターに隠れるのをよしとせず、グランド・ホテルで朝食をとっていたところをボーア軍の砲弾にやられ、頭と胸を吹き飛ばされて死んだ。夜におこなわれたラブラムの葬儀には町の多くの人間が参加した。

 パールデベルグPaardebergで、ボーア軍のピエト・クロンジェ将軍は英軍に降伏する。これがはじめての英軍の輝かしい勝利となった。トゥゲラ河での一連の戦いで英軍は優勢となり、キンバリー、レイディスミスと次々と解放するが、オレンジ自由国首都ブルームフォンテインは制圧するもゲリラに包囲されてしまう。不衛生のためにチフスが蔓延する。

 行進、合戦、都市の占領という古い戦争が終わり、面のなかにいる部隊を撃破していくという近代戦への移行がボーア戦争では見られた。これはゲリラ戦争においても見られたもので、ボーア軍はまさにゲリラの機動力を利用したのである。

 ブラーの悪評は部下やインド派閥の将軍のネガティヴ・キャンペーンによってつくられたもので、彼の指揮がそこまで間違っていたわけではない、と著者は評する。一方、ロバーツのほうが旧態依然とした思考にとらわれていたという。ミルナーは「黄金虫」炭鉱経営者らとの同盟の兼ね合いから、戦争の早期解決を求め、これが失策につながった。

 オレンジ自由国領土でのゲリラ攻撃に、ロバーツの主力軍は妨害を受ける。

 一方、ケープ植民地とトランスバールの国境の町、マフェキングMafekingでは、バーデン・パウエル(B-P)率いる守備隊が包囲を受けていた。バーデン・パウエルは珍しいタイプの将軍で、ヴィクトリア朝の冒険小説にうってつけの人物だった。彼は斥候scoutを極度に重視し、冒険を好む勇猛果敢な将軍だった。彼は植民地戦争で原住民を相手に戦った。チェンバレンやランズダウン戦時相の指令を受けて、開戦時、ロバートの援軍が来る前に、マフェキングでボーア軍をひきつけるという任務についた。作戦は成功し、マフェキング包囲のためにボーア軍が出動した。戦争初期がすぎると、マフェキングの陽動の役割は終わった。

 ベーデン・ポウェル(と発音するらしい)の作戦は成功したが、3月、4月に入ると食糧が不足する。B-Pは黒人を追放し、また黒人から食糧を取り上げる。黒人たちは犬を殺して食べたり、餓死したりした。また、B-Pの命令で黒人をけしかけボーア人の家畜を襲わせたため、ボーア人は数十人の黒人を射殺する。ボーアの将軍はB-Pのやりかたを非難し、「これは白人の戦争だ」と主張する。

 ボーアに残された本陣はプレトリアとなった。ロバーツは戦争はすぐ終わるのではとおもったが、ボーア軍はオレンジ自由国内でゲリラ戦を始める。このため、英軍はボーア人の農場を焼き払う作戦に出た。前線の兵隊は、英軍の到着をみて牛乳をもってくるボーア人の女にたいし、いたたまれない気持ちで「農場を焼き払わなければならない」と告げたという。

 ハンター将軍、ハミルトン、キッチナー、ロバーツらの進軍によって、続々とボーア軍が降伏する一方、ピエト・ド・ウェットPiet De Wetとオレンジ自由国首相シュテイン、およびデ・ラ・レイが神出鬼没のゲリラ戦を展開して、ボーア軍の士気を鼓舞した。ド・ウェットの機動力や撤退の早さは、英軍や英国民にまで知れ渡った。

 ロバーツの「戦争は実質的におわった」"practically over"という言葉に反して、より市民に害を及ぼすゲリラ戦争がはじまった。

 将軍の評価では、著者は名将は総じてボーア軍にいたとする……ボーサ、ド・ウェット、デ・ラ・レイ、スマッツなど。ブラーの戦術は秀逸だったが、失敗に霞んでしまったという。

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 4 キッチナーの平和

 一九〇〇年秋、本国では選挙がはじまる。

 ド・ウェットは英軍の奇襲を受け敗退する。イギリスのクレメント将軍、ボーア軍のベイヤー将軍Beyer それにスマッツは、ゲリラ戦で対峙し、ボーアの二将軍は奇跡的に共闘してクレメントの部隊に大打撃を与える。ゲリラ戦では、中央政府からの指令が届くのに一週間かかることもあり、各部隊は必然的に独立して行動せざるをえなくなる。スマッツとベイヤーの動きがうまくかみ合ったのは偶然だった。

 両軍とも、和平を望むか戦争継続を望むかで内紛がおこる。ミルナー帝国主義者は決定的勝利を望み、休戦をたくらむ人間は「ボーアに与している」と非難する。キッチナーは共和国側との会談を望むが、受け入れられない。一方、共和国のなかでも、ゲリラ戦で市民を犠牲にすべきでないとする声があがるが、英雄的な軍人ボーサやスマッツ、シュテイン大統領は徹底抗戦を主張する。

 クルーガーはすでにモザンビークに逃れ、トランスバールオレンジ自由国の主要都市はイギリスの手にあった。ロバーツの農場焼き払い作戦は賛否両論をうけながらも続行される。

 ケープ植民地に、ハーツォグHertzogとクリツィンガーKritzingerというボーア軍の将軍が侵入する。これにミルナーはショックをうける。ミルナーは無条件降伏までいくべし、と新しい戦時相ブロドリックBrodrickに主張する。

 キッチナーのボーア人強制収容所concentration campについて項が割かれている。女性運動家やロイド・ジョージ、キャンベル・バナーマンCBらは強制収容所の非人道的待遇を非難する。キッチナーは軍略にしか関心がなく、行政的なことには無関心だった。

 スマッツはケープ植民地でゲリラ戦をくりかえす。ゲリラ戦を継続することで、独立を保ち、風向きが変わるのを待つことができる。スマッツの行く先々には、焼けた農場と、家畜の死体を投げ込まれた腐った貯水池ばかりだった。

 シュテイン、ド・ウェット、デ・ラ・レイ、そしてボーサを駆逐するため、キッチナーは有刺鉄線berbed wireとトーチカを各所に配備し、徐々に制圧地帯の面積を広げていく。キッチナーは内外の批判をうけて強制収容所にボーアの女子供を送り込むのをじきにやめてしまったが、かえってこれはゲリラの重荷になり、英軍の勝利を早めた。

 「白人の戦争」という謳い文句が使われているが、ボーア戦争においては、明白に黒人が中心的な役割を果たしている。両軍とも輸送や後方部隊に4万人ほどの黒人を徴用している。また、反対をおしきって黒人にライフルをもたせたのはキッチナーである。黒人の銃撃はボーア軍を戦慄させた。

 1901年5月、自由国のボーサとド・ウェット、共和国のデ・ラ・レイらがキッチナーと休戦協定をむすぶ。ゲリラ軍は馬の不足、食糧の不足、そして妻子の苦難から、これ以上の闘争継続が不可能であると結論をくだした。また、黒人のカフィル族の暴動や事件もボーア人をおびやかしはじめていた。さらに、英軍には寝返った数千人のボーア人兵士が、部隊に加わっていた。ボーサらは、ミルナーの帝国至上主義的な和平案でなく、キッチナーの穏健な和平案を選択した。

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 英軍はナポレオン戦争以来の莫大な戦費をつぎこんだが、二つのボーア人国家はそれ以上の犠牲を払った。クルーガーは亡命先のスイスで死に、ミルナーは数年して役職を退いた。ミルナーの意図に反して、あらたに帝国の一部となった南アフリカにおいて移民が増加することはなかった。ボーア人が人口の多数を占めつづけた。アフリカ人は、ボーア人のときよりも給与を減らされ、政治的権利も与えられなかった。

 

 ボーサとスマッツ南アフリカ政府の中枢として働く。第一次大戦勃発時、強硬派のド・ウェットとデ・ラ・レイは反乱をおこすが、ボーサとスマッツに鎮圧される。

 

 南アフリカは現在、ボーア戦争時に見積もられた以上の価値をもつ鉱山国家となっている。

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 細かい事実の積み重ねと、定説や定まった評価の再検討を繰り返して、歴史をつくっていく様子がわかる。

 

 

The Boer War

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