うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『信長の天下布武への道』谷口克広

 尾張守護斯波氏を押しのけ戦国大名となった織田信秀を受け継いだ信長は、まず身内を固め、また二心のある身内を先手先手を打って殺し、つづいて美濃の斉藤道三と結び、今川を破る。信長の敵は、駿河三河の今川、甲斐の武田、道三の息子斉藤義龍、三好、六角氏ら国衆だった。

 岐阜城制圧後、信長の前に立ちふさがったのが越前の朝倉義景、信長を裏切った浅井長政である。姉川の戦いにおいて、織田・徳川連合軍は浅井・朝倉連合軍を破ったが、決して致命的な打撃ではなかった。ほかの著作においても、信長がもっとも苦戦したとされる戦闘が、志賀の陣である。四国からやってきた三好氏(三好義継、三好三人衆、三好康長ら)にたいし、足利義昭が討伐命令をくだし、信長は摂津天王寺にむかう。ところが大坂本願寺が突如鐘をならし攻撃を開始する。さらに信長の留守を狙って浅井・朝倉軍が延暦寺にたてこもった。数ヶ月の膠着のあと和睦が成立した。

 つづいて比叡山焼打ちがおこなわれる。

 武田信玄とは三方が原の戦いがおこなわれる。将軍義昭を追放し、浅井・朝倉を滅亡させる。つづいて長篠の戦いで勝頼を敗走させる。長篠の戦いを境に、信長は天下人(てんかびと)を意識しはじめ、滋賀安土に安土城を築く。

 信長は方面軍を派遣して各地を平定させ、嫡子信忠は天目山で勝頼を自害させ、武田氏をほろぼす。

 信長は短気なときもあれば辛抱強いときもあり、かっとなって虐殺するときもあれば冷静で寛容な場面もあった。中国共産党のように世論や外聞に細かく配慮した。彼の戦術は大量の兵を基盤にしたスピードのある戦いであり、桶狭間のような少数戦はまれだった。また、篭城はいちどもおこなっていない。

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 信長の軌跡が順を追ってわかりやすく示されている。武田信玄毛利元就などはみな信長よりも前の世代だということを知った。また毛利氏の水軍の力、および毛利氏そのものにも関心がわいた。

 畿内にありながら後半まで未征服のまま残っていた伊賀とはどのような国だったのだろうか。

 

信長の天下布武への道 (戦争の日本史)

信長の天下布武への道 (戦争の日本史)