うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『信長の親衛隊』谷口克広

 常に武将のそばに仕え、雑務をこなし、戦場においては本陣を固めるものを近習という。信長の近習には軍事・警察任務を担当する馬廻(うままわり)、身の回りの世話をする小姓、書記をつとめる右筆、雑事をつとめる同朋衆、ほか、各自仕事をこなす奉行衆がいた。それぞれ仕事を兼任することもあり、また職制も徳川時代のように整備されていなかったから、小姓が馬廻より上の格にある例もあった。

 この近習として有名なのが右筆の武井夕庵、馬廻の塙直政(ばんなおまさ)、小姓の森成利森蘭丸)、同朋衆の一雲斎針阿弥(いちうんさいしんあみ)らである。連枝衆(一族衆)の織田信広、織田家家老の林秀貞、部将の地位にある木下秀吉や丹羽長秀らは近臣のなかでも別格である。

 彼らが外交の際の手続きや内政、検使(武将の働きを観察する)などをおこなった。

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 信長の家臣の定義は複雑である。名目上は、足利義昭のもと、幕臣という扱いで同列だったものや、ほぼ従属に近い同盟国だった家康などを除外すると、主としてあげられるのは方面軍の武将……柴田勝家(北陸方面軍)、明智光秀(近畿管領軍)、羽柴秀吉(中国方面軍)、滝川一益関東管領軍)、神戸信孝(四国方面軍)、および嫡男の信忠ら、また遊撃軍の丹羽長秀、蜂屋頼隆、池田恒興、織田水軍の将九鬼嘉隆、旗本の旗本武将、馬廻、小姓、弓衆、鉄砲衆、吏僚(文官)、外様である。

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 前田利家は小姓から出発し、馬廻を経て、一度勘当されるも武勲をたてて最終的に柴田勝家の与力大名となり、能登一国を任された。塙直政は戦闘ではなく工作や偵察、憲兵任務、行政を担当する地味な馬廻だったが、わずか六年のうちに大軍を任され、石山本願寺とのたたかいで戦死した。

 信長は実力主義にしたがって人材登用をおこなったが、やはり身分は武士が基準だったようである。秀吉は例外中の例外であり、ほかには巡礼出身のものや相撲取り出身のものもいたが、少数だった。

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 馬廻は信長の機動部隊としても活躍した。桶狭間のたたかいや朝倉追撃戦など、信長は率いる軍団を置き去りに敵方に不意に突撃することが多い。このとき信長の脇を固めたのが、わずかな軍勢の馬廻である。たまたま別の場所にいた堀秀政や矢部家定を除いて、彼らは本能寺の変でほとんど全滅してしまった。

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 馬廻には単騎がけのものから、前田利家佐々成政ら数百人の部下を従えるものまでさまざまだったが、単騎で戦場に乗り込み勲功をあげ、徳川時代まで生きながらえたものに兼松又四郎がいる。身分がまだ未分化だった信長の時代には、塩商人を兼ねた大脇伝内や、熱田神宮の大宮司でありながら部隊指揮官だった千秋氏、建設大臣のごとき土木奉行酒井文介、関東の馬術師矢代勝介など、多様な出自の近習がそろっていた。

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 親衛隊は信長のエージェントの役割を担っていたため、ときには秀吉や光秀ほどの武将を叱責することもあった。また、近習への贈り物をおこたったために信長に疎まれたという、光秀についての俗説も存在する。

 信長親衛隊の最古参(第一世代)である松井友閑や武井夕庵は、老齢になっても重要な政務について働いた。本能寺の変で生き残った堀秀政や長谷川秀一は秀吉につき、両名とも領地を与えられるが、病で早世する。夕庵、友閑はその後もつつがなく大坂で生活する。

 信長の力をバックにしていた親衛隊は、本能寺以後は皆絶望的な状況のなかに陥った。

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 未整理状態の信長の組織を細かく定義し、史料の正統性を検証してから個別人物を調べる作業はさぞ地道だろうとおもう。しかし根気強い耕作によってのみ全体像を把握することが可能になるのではないか。

 

信長の親衛隊―戦国覇者の多彩な人材 (中公新書)

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