うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『Blood meridian』Cormac McCarthy

 民間「ジークフリート」か、中世のピカレスク風の速度で少年が育つ。少年はすぐに家を出て悪党の道をふみだす。

 "Outer Dark"よりも叙述は簡潔で、舞台もにぎやかな開拓地のようだ。荒くれ者との喧嘩、ナイフ戦闘、寝込みを襲って殺し宿屋ごと火をつけて逃げる、などの悪行を、自ら行うか、悪党につきしたがうことで少年"The kid"は経験する。ロバと馬との混血に乗ってからは、他の本と同じく長話をする隠者と出会う。

 少年は酒場で暴れたあと、大尉、キャプテンCaptainの率いる隊に入隊する。これは合衆国の兵ではなく、大尉の私設軍隊である。大尉は愛国者帝国主義者であり、メキシコ国境での戦争が停戦協定によって終わったことを許さない。アメリカ人の犠牲の上に得た土地をほうっておくことはできない、また、メキシコ人は統治能力のない人間である。自ら治めることのできない人びとはかわりに統治されなければならない。その役目はフランス人ではなくわれわれアメリカ人にこそある。大尉のことばは確信にみちている。少年は隊とともにメキシコ国境へ向かう。

 この部隊は意外ともろく、途中で四人ほど病死する。まもなく、彼らは地平線に家畜か動物の群れを発見する。群れはこちらにやってきて、水牛や馬の群れではなく、インディアンの大軍団だとわかる。インディアンの襲撃は、全面が輝く絵画のように描かれる。インディアンたちの姿、土ぼこり、服装と装飾品、矢の雨、首に矢がささって倒れる隊員、飛び交う槍などの光景は、精密画のようにくまなく書き込まれる。風景創造を、インディアンと騎兵隊の合戦にもそのままあてはめたようだ。映画「小さな巨人」の合戦をおもいだしたが、この場面だけでも読む価値がある。

 馬や水牛に乗ったインディアンは毛皮や装飾品で姿をカモフラージュすることもできる。水のない土地を歩き、インディアンに捕らえられ、そこを抜け出してならず者一行とともに旅を再会する。メキシコに入るとスペイン語が登場する。

 悪党のグラントンを筆頭に、少年たちはメキシコを進軍する。途中で旅芸人の一家を仲間に加え、さびれた町にたどりつく。路上にmeatcampにいたという老婆が倒れており、グラントンはピストルで老婆を射殺し、メキシコ人の仲間に命じて頭蓋骨を剥ぎとらせる。

 グラントンは明確な意思をもってホールドアップを繰り返し、殺した死体の頭蓋骨を略奪する悪人である。しかし、老婆は歩くことができず、路上に倒れていたのだから、頭を撃ちぬくことで慈悲を示したのかもしれない。根本的な徳目がなにもうみださない場所で、徳や善悪を云々する意味があるだろうか。

 少年は、叙述の中で「頭蓋骨ハンター」と呼ばれるようになる、ならず者グラントンの一団に従っていくが、この少年を悪いとか良いとかいうのは無意味である。

 The Judge(判事)と呼ばれる男はインテリであり、遺跡や遺構などをノートに書きとめている。判事の話を聞きつつ一行は進み、殺された金鉱探険家たちを発見する。下手人たちをたどるうちに、村にたどりつく。Gileno(ヒレーニョ)とはアパッチ族の氏族のことらしい。

 頭蓋骨ハンターの一味は嵐のようにアパッチの村を襲撃する。子供の足をつかんでふりまわし、頭を岩にたたきつけて脳髄を飛び散らせるという描写がある。自分の記憶に限れば、サド、ハインリヒ・フォン・クライストにまでさかのぼれる歴史ある惨殺である。

 途中、荒野のなかでひょうに降られる場面がある。自分は同じような経験を新疆維吾尓自治区のバインブルグで経験した。馬に乗っていると突然雲にかこまれ、ひょうが降ってきて肌が痛くなった。

 フロンティアやメキシコでは、白人とインディアン、インディアン同士が交互にこうした闘争を繰り返していたのだろうか。定住して柵を囲い、交代で見張りをたてれば襲撃はある程度防ぐことができる。しかし定住しようにも耕作しなければならず、定住地の面積は広がる。これを長城のように囲って、絶え間なく歩哨を立てるのは不可能である。よって、騎馬民族方式で略奪と牧畜を繰り返したほうが効率的になる。そのかわり彼らの生活はつねに戦時体制の生活である。

 判事は壁画や遺跡を記録するが、同じように子供のアパッチ族を殺し、頭蓋骨を収集する。彼にくらべればトードヴァインにはまだ子供をかわいがる性質がある。

 グラントンや判事は人を射殺することにかけても厳格である。チワワの都で、120あまりの頭蓋骨をかかげた一行は手厚い歓迎をうける。風呂に入り、育ちのいい市長の晩餐に招待される。あまりに騒ぎすぎたので数週間後に追われるように都を出る。

 エリアス将軍率いる騎兵隊との戦闘でグラントン隊は負傷し、少年は負傷者の始末をまかされ、グラントンたちは先に進む。かれらはならずものに見えるが、都市や町と頭蓋骨取引の契約を結んでいる。少年とグラントンが合流したとき隊員は四人ほど減っていた。斥候に出たものはめちゃくちゃに殺されて木に吊るされていた。

 次の町で新しい仲間を引き入れ、再出発する。途中、グラントンたちを包囲し金を要求する、スペイン語の達者なインディアン、マンガス・コロラドスは実在のアパッチ族酋長である。

 長く頭蓋骨ハンターたちを率いたグラントンは、山砲で駆逐したユマ族の逆襲にあう。寝込みをおそわれたグラントンは斧で頭を真っ二つにされる。判事の部屋になだれこんだユマ族は、判事が臼砲を手に抱えているのをみて、もみくちゃになりながら引き返す。グラントンらはその後解体されかがり火に投げ込まれるが、判事は生き残っており、別行動していた少年、トードヴァイン、神父のトビンらと合流する。

 ジャッジとの銃撃戦ののち、お互い引き分けたまま別れ、道中では珍しい友好的なインディアンにもてなされ、海岸のサンディエゴにたどりつく。

 かつての仲間は殺されるか、行方不明になるか、絞首刑になるかして消えていき、もう少年でなくなった男とジャッジだけが残る。ジャッジは最後、かつての少年に長話をする。

 戦争が偉大でなくなると戦士は居場所をなくす、しかし血を見た人間は戦士のような栄誉をもつべきである、という類の主張をする。人の運命は人が住む世界と同じくらい大きい。砂漠は多くの人間を飲み込んでいるが空っぽである。

  ***
 meatcampがなんなのかわからない。メキシコ焼酎(Aguardiente)をぶっかけて火をつけ、そのまま焼き殺す場面があるが、そこまで可燃性があるのだろうか。

 少年の旅と老化をひたすら追った小説だが、はたして少年は成長したといえるだろうか。人間性が成長するとか、なにかを学ぶとか、そういうことを問題にしている本ではない。少年を筆頭に、登場人物のほとんどは自分の感情をあらわにせず、また文が心理を代弁することもない。現実にあらわれぬ世界は時々夢や譫妄、人物の演説などによってほとばしる。

 全編を通じて表現されるのは強盗殺人、殺戮、刃傷沙汰、負傷と傷口の腐敗の進行、餓え渇き、死体、骨であり、砂漠の人間たちはみな泣き言をいったり悩んだりしない。魅力をもっているのは確信に満ちた頭領グラントンや、ジャッジ(判事?)、強力なインディアンやメキシコの将軍などである。

 西部開拓時代から、世界はすでに不可解だという印象が強烈に伝わってくる。「世はなべて事もなし」の平和をもとめる人間にとっては、こうした世界は理解しがたい。しかし理解しがたい、納得できないまま生き延びるしかない。

 マッカーシーの小説はみな紀行文の形式である。風景創造に重きをおいており、彼らの踏む土地はみな美しく、星座にかんする知識も披露されるが、そこでおこなわれるたたかいは血にまみれている。

 ふだん見られない血なまぐさい殺し合いを日常的におこなう光景が鮮明に残る。

 

Blood Meridian

Blood Meridian