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うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『フーコン戦記』古山高麗雄

 九州在住の老人が、自分の従軍したフーコンについての思い出を滔々と語る。

 彼はビルマのフーコンに送られ、そこで激戦を経験したが、このことはあくまで彼個人の体験にすぎない。個人の体験にすぎないものを、平和のため、反戦のためという名目で喧伝したり、もしくは恥ずかしい武勇伝としてとられたりすることに彼は納得がいかない。

 自分の体験を、たとえば上官が勝手に規定したりすることにも違和感を覚える。同じフーコンで戦った参謀が、自分の書いた軍記のなかで、天皇から賞を賜って部下たちはよろこんだ、と書く。しかし老人は、自分はそんなことによろこびはしなかった、とあたまの中で反論する。また、戦争体験を、反戦平和の名分のもとで得々と語る人間を見ていると、彼らはただしゃべりたいだけなのを、しゃべりたいだけと言いたくなくて大義をかかげているにすぎないと感じる。

 彼にとって戦争経験は個人の体験にすぎない。また、その経験で学んだことも、運がひとの人生において大きな割合を占めるといった類のもので、厳正なイデオロギーのようなものはない。運はこの本のなかでたびたび言及される要素である。将校にも兵卒にも、運は平等に振舞う。確率の多寡はあっても、死ぬときは皆死ぬ。そもそも一定の場所と時代に生まれたことからして運の問題である。

 すなわち、人間の手の届く範囲は狭い。

 人間の限界は境遇や天運にとどまらない。人間はひとのことを理解することができない。老人によれば戦前も戦後も世の中は嘘で塗り固められているが、自分以外の人間にとってその嘘が嘘かどうかも確かめるすべはない。

 戦争や記憶の問題についてつぶやく老人のことばが、平静を感じさせるのにたいし、彼が戦争未亡人にたいしていだく性欲や(もっとも肉体的には不能だという)、ヒモ生活だけで生きてきた老人などの話題は、ひたすら醜悪である。老人にすれば醜悪なことを考え、言っているという意識はないだろうが、老人たちの色恋沙汰はフーコンの戦場よりも悪趣味である。

 「文江は、はじらいながら、どこにでも押しつけて来る夫の鼻や口を受け容れたのである。その鼻や口を、しかし、中川一等兵は、フーコンの泥に突っ込んで死んだのだ」。

 この文は悲劇的な調子で書いたわけではないだろうが、かといって完全なジョークというわけでもないだろう。しかし笑った。

 

 本の大部分は、自分の配属された菊兵団と、フーコンでの戦いを思い出すことに費やされる。この大部分はおおまかに彼の配属した中隊の進路をなぞっているが、ほとんど物語らしい起伏はない。死体、下痢、山蛭、蛆虫、タコ壺、ビルマの異国的な自然が幻のように映されるだけである。しかし、老齢のためもあり記憶が曖昧で、自分がどこを歩いてきたのかを完全に知るのは不可能だった。夢のようで夢でない、と結びにおいて書いている。

 老人の住む社会と、フーコンは遠く隔たっている。記憶もあやふやだが、腕がもげたのは現実であり、障害者手当てをもらって生活してきたというのも夢でない証である。

 自分の記憶についてだけではない。老人はほとんどなににたいしても決定することができず、結論のまわりをうろついたまま保留する。もしくは、そもそも決定に意味があるのかどうかを疑問におもう。

 ビルマに自分を追いやった国や、牟田口や辻といった司令官大名行列のごとく、自分をどかして道路を通り過ぎていった師団長(閣下と呼ばれる)、これらすべてにたいして憎悪を抱きはするが、抱いたところで、同時にどうでもいいとおもう。なぜなら老人はもうすぐ死んで灰か無になるからである。

 「大君のへにこそ死なめ」、反戦と平和、井上師団長の「感状をもらって兵隊一同よろこんだ」、これらはすべて老人の外から押し付けられた観念である。自分の経験や記憶の意味を、外から勝手に決められるよりは、結論を出さず、わからない、でとどめておくほうを、老人は選ぶ。

 人の経験や生活、命はちっぽけだが、それでも自分のものである。

 

フーコン戦記 (文春文庫)

フーコン戦記 (文春文庫)