ひたすらカルタゴについて書かれている本。いつかチュニジアを旅行するときとか、カルタゴ人に会ったときとかに役に立つかもしれない。
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カルタゴはおもにローマの敵国として有名だが、その価値は軽視されている。カルタゴはテュロスから来たフェニキア人によって紀元前八一四年建てられた。フェニキア人は現在のシリア付近に諸都市を築いたセム系の人種で、豊富な港を基盤に一大船乗り民族となった。テュロスからカルタゴへ殖民がはじまったのち、テュロスがアッシリア、ペルシアとのたたかいによって衰退した。カルタゴにはテュロスの王族が移っていたため、カルタゴはテュロスに代わる正統性をもつ都市となった。カルタゴに住む人間をポエニ人というが彼らは純粋なフェニキア人ではなく混血だった。
カルタゴはアフリカ、地中海の各地に植民をおこない、諸都市と海上経済連合を形成した。カルタゴとローマが対峙するのは前二六〇年で、大陸を基盤にしたローマが、膨張政策をすすめたことが原因だった。ローマ傘下のメッサナと、カルタゴ参加のシラクサとの抗争からはじまり、講和でおわった。カルタゴのハミルカル・バルカスは名将であり、彼は講和後におこった傭兵の反乱も鎮圧したが、権勢をうとまれてイスパニアに追放となった。彼はイスパニアでカルタゴ・ノワを首都とする帝国を築き、また職業軍を設立し、のち息子のハンニバルに指揮権を与えた。
前二一九年、ローマへの憎悪を受け継いだハンニバルが戦争をしかけ、彼の軍はピレネーを越えてイタリアへ向かった。途中カンネーのたたかいでローマを打ち破る。しかしローマはシラクサを制圧し、将軍スキピオはカルタゴに軍勢をさしむけた。ハンニバルは引き返しスキピオとたたかうが敗北、屈辱的講和を受け入れた。彼はシリア王アンティオコスのもとに亡命し、ローマ討伐連合軍結成を試みるが失敗、自決した。
カルタゴの宗教はオリエントのフェニキア人のものと類似しており、またユダヤ教にも類似する経典がある。主神は女神タニットと神バアル・ハンモンである。バアルはゼウスやアポロン、ローマにおいてはサトゥルヌスと同一視されてきた。
カルタゴの宗教的彫像は、ギリシアの図像から借用したものが多いが、「ポエニ人の信仰と典礼書は、形式も精神も深くオリエント風をとどめていた」。祭司はコヘンとよばれ、世襲職だった。
はじめ世襲王と長老会議による政治制度が敷かれていたが、やがて元老院と民会が集まり執政(スフエス)が政治をおこなう共和政に移行している。これはテュロスから類推したものである。やがて選挙王政が確立した。元老院からさらに常設の参事会が組織される。外国人、奴隷、解放奴隷には選挙権がなかった。
「……古典時代の記録によると、狭い路地をへだてて五、六階建ての高層建築が、中央広場から城砦まで階段状にひしめき合っていたことがわかっている」。地階は倉庫であり、平屋根は雨水を貯蓄できた。カルタゴの郊外メガラには富強の邸宅が並んでいたという。
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前五世紀、富豪のマゴ一族は帝国を組織し、軍隊を拡張したが、傭兵たちの訓練は行き届いていなかった。カルタゴはできるだけ戦争を避け、外交交渉と財政で物事を解決する方針だった。このため軍隊の訓練はあまりされておらず、戦果もあげられなかった。
軍隊は歩兵隊、騎兵隊、戦車隊、砲兵隊に分かれた。戦車隊はのち象兵となり、横一列に百頭ほどの象を並べて敵軍に突撃した。砲兵隊は巨大な櫓や破城槌、ど砲、飛び道具を用いた。
カルタゴの船は無甲板船であり、船首と船尾がそそり立ち、帆または櫂で進んだ。軍事用の船は船首が衝角になり突っ込んで敵艦を沈めた。
カルタゴ文化としては死者にかぶせる仮面や地下数メートルまで彫った竪穴式の墓、石碑、壮麗な神殿などが有名である。
小スキピオがカルタゴを徹底的に破壊したあとも、グラックスやカエサルなど歴代皇帝がカルタゴを植民化し、やがてローマ第一の豊かな都となった。蛮族がローマを簒奪したとき、富豪たちはカルタゴに逃れた。ヴァンダル族はカルタゴを攻撃目標とし、徹底的に破壊した。このあいだカルタゴは内紛や悪疫などで衰退し、六九六年、アラビアがやってきたときには死の都になっていた。後、チュニスやイタリアの建築家によってカルタゴは巨大な採石場になり、遺構さえ失われていった。
- 作者: マドレーヌウルス・ミエダン,Madeleine Hours‐Mi´edan,高田邦彦
- 出版社/メーカー: 白水社
- 発売日: 1996/08
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