うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『距離の暴虐』ジェフリー・ブレイニー

 オーストラリアの特性である「距離」を中心に歴史を書く。本国たる英国・ヨーロッパからの距離が与えた影響、また輸送機関の与えた影響を、本書ではとくに重視している。

 オーストラリアは大陸から隔絶しており、また緯度40度付近は強烈な西風が吹き高波が生ずるため"Rolling Fourties"とよばれている。オーストラリアの歴史を書くとは、海やあらし、航海、開拓を書くことである。

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 大航海時代にスペインとオランダが偶然オーストラリア西岸に接近したがめぼしい産物がないため無視された。その後18世紀、イギリスの探検家・天文学者クックはシドニー近辺のボタニー湾に上陸し、ニュー・サウス・ウェールズと名付けた。このときも、通商の役には立たないようにおもわれたためほとんど注目されなかった。

 当時の植民地は、貴重な香辛料や茶などを本国に供給するカルカッタなどか、ケープタウンのような寄港地として用いられる「レストラン植民地」かに分類されたが、オーストラリアにはまだ貴重な産物もなく、貿易上のルートからもはずれていた。

 しかし合衆国が独立し、にわかに重要性が高まる。合衆国の独立は船舶をつくるための良質の木材供給を断った。また、東南アジアで競合するフランス、オランダの勢力を迂回するために、喜望峰からオーストラリアに行きそこから北上するルートの開発が考えられた。以上の複数の理由から、英国政府はオーストラリアを流刑地に指定し、同時に殖民をおこなうことを決定した。

 

 植民者と囚人はシドニーに到着したものの、本国からの距離のためか、補給船はなかなか来ず、無人の島に取り残された状態になった。ハンター総督はシリウス号を出帆させ、東に航路を取りチリ南端のホーン岬を通って喜望峰にたどりつき、ここで半年分の食糧を載せてシドニーに無事帰還した。航海中氷山にあたりそうになり、また壊血病で船員が死に、タスマニア付近では暴風雨で座礁しそうになった。無事世界一周して帰ってきたものの、依然として本国からの連絡はなかった。土地が貧しく雨も少ないため、作物は育たなかった。

 

 ナポレオン戦争を経て一八二〇年代になるまでに、イギリスはオーストラリア全土の領有を宣言し、各地に貿易港や流刑地、植民地を置いた。フランスは競争過程で先を越された。現在のメルボルン、オルバニー、パースなどがこの時代に生まれ、ニュージーランドも鯨産業の点から重視された。陸地からの羊毛と海での鯨油によって、オーストラリアは単なる流刑地、寄港地から、目的地へと変わりつつあった。

 一九三〇年代から、鯨の骨や竜涎香を求めて捕鯨が活発になり、あざらし漁も盛んにおこなわれる。羊毛業が起こるまでは捕鯨と造船業がオーストラリアを成り立たせていた。

 

 オーストラリア東岸に沿ってブルーマウンテンズという脊梁山脈が連なっており、また内陸と岸をつなぐ河川が存在しないため、長い間植民地人たちは沿岸部に閉じ込められていた。十九世紀中盤になると、山脈の向こうに牧畜に最適な平原を発見する。

 

 一八五〇年、牧羊者が金鉱を発見し、ゴールドラッシュがはじまった。イギリス政府による移民の輸送援助もおこなわれ、人口は増大した。ゴールドラッシュとほぼ同時期にアメリカで誕生した快速帆船、通称クリッパーが全盛期を迎え、輸送時間は大幅に短縮された。また中国からの移民が送られた。

 十九世紀後半から徐々に、蒸気船が主流を占めるようになる。また海底ケーブルがロンドンからメルボルンまで敷設され、情報伝達が早くなった。このためオーストラリアの株価は頻繁に変動するようになり、本国の投資家たちをひきつけた。北部ダーウィンメルボルンとのあいだには、電信士が孤独のなかで仕事をこなしていた。彼らはリレー式に電信を送り、誰よりもはやくヨーロッパの情報を知ることができた。

 鉄道ははじめ東海岸沿いにつくられたが、やがて内陸にも通じるようになり、河川の外輪船交通は衰退した。オーストラリアの川は蛇行が多く、また浅瀬や流木が多かったため、港はつぶれる運命にあったという。

 十九世紀末から二十世紀にかけて、帆船は高速蒸気船に、馬車やらくだ輸送は鉄道にとってかわられはじめ、また自動車の普及率は全世界のなかでも圧倒的になった。

 

 距離の「暴虐」という邦題だが、あくまで距離が支配権を握ったというだけでそこまで否定的な印象はない。交通からみたオーストラリアの歴史である。

 

距離の暴虐―オーストラリアはいかに歴史をつくったか (1980年)

距離の暴虐―オーストラリアはいかに歴史をつくったか (1980年)