うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『秦漢帝国』西嶋定生

 本書は秦漢帝国の概略を述べたものである。秦漢帝国の成立は、とくに皇帝とその下の官僚制・郡県制、および儒教の国教化という二点をもって、その後の王朝の基盤をつくりだしている。同時に東アジア世界なるものが生まれたのも、二つの統一王朝の成立による。

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 秦帝国の郡県制・官僚制は、春秋・戦国時代を通して貴族・農民の氏族制が崩壊したことにより形成されていった。貴族は氏族を失って強力な君主の下に集まり、官僚となった。農民も家族単位に分散した。こうした社会変化に適応して制度を整えた秦が、天下統一をなしたのである。

 始皇帝の父は大商人呂不偉にかつがれて秦王になるが、即位後まもなく死ぬ。呂不偉は『呂氏春秋』を編纂し、数千の賓客を集めたが、その後クーデターに巻き込まれ幽閉され自殺する。即位したのが始皇帝・秦王政である。政は李斯をブレインに法家を実践した。また、「皇帝」という号を定め、自らの死後には始皇帝と記述させるようにした。

 皇帝とは、光輝く絶対神という意味であり、天上の神、すなわち天帝と同等とされた。

 始皇帝の評価は漢の正統性と儒教迫害の点からゆがめられている。彼は李斯にしたがって郡県制(官僚を配し徴税させる)を敷き、民間兵器を没収し、また度量衡・貨幣を統一し、文字はテン書とした。匈奴に対抗して長城を築き、また阿房宮、リ山稜を建設した。

 始皇帝の死後胡亥が後継となったがまもなく陳勝・呉廣の乱がおこり、劉邦項羽が台頭する。劉邦項羽の楚漢戦争ののち漢が全土を統一し劉邦は高祖となる。

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 漢は地方に王国・侯国を置き郡国制をとったがそれ以外の地方では郡県制を継続した。王や列侯もあくまで中央に従属するものだったが後に独立色を強め呉楚七国の乱をおこすことになる。

 漢成立当初、官僚の最高位は丞相(相国)でありその下に太尉、御史太夫、臨時軍事指揮官の将軍、天子の身辺警護の郎中令などがおかれた。丞相はやがて名目および人事評定の仕事をつかさどるようになり、政治の実権は御史太夫がもつようになった。

 王国・候国の郡国制は、封建制に傾かせ独立を促す危険をもつ一方、異民族統治の点からは革新があった。

 高祖が死ぬと呂后とのあいだの病弱な子が帝位をつぎ恵帝となったがすぐ死ぬ。この間に呂后は嫉妬からほかの妻やその子をつぎつぎと謀殺する。呂后の死後、呂一族は劉氏により抹殺され、劉氏から文帝が出る。文帝につづく景帝のとき、呉楚七国の乱がおこり、経世家のチョウソが殺されるが、乱は鎮圧される。七国の乱を経て漢は中央集権化をさらに進め、武帝の代に帝国は栄華を極める。

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 匈奴は漢にとって敵国だった。敵国とは匹敵の国の意味であり、対等な国家を意味する。一方南越や朝鮮国は外藩である。こうした外交関係はあくまで政治的関係に限られ、たとえば南越や朝鮮は漢にたいしては外藩であっても内政は自由にとりおこなうことができ、また彼らが漢以外の国にたいし皇帝を名乗ったりするのも自由だった。こうした封建的な郡国制は異民族を包含する漢の支配システムの基盤となった。

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 武帝の時代は外征の時代であり、匈奴との戦争がつづいた。衛青やカク去病などの将軍が活躍した。一方南越や朝鮮も、外交問題から征服され、南越は現在の広西省、広東省となった。四川省付近の少数異民族も夜郎夜郎自大の語源)などを除き征服された。

 張騫は西域を旅し、漢の存在を諸国に知らしめた部将として有名である。彼の旅行記は漢書の参考にもされた。

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 武帝の華々しい遠征のいっぽう、貧富の差が拡大し、社会不安は増大した。塩鉄専売制は豪族や大商人の不満をまねき、官僚による搾取がおこなわれた。巫コの乱によって武帝の身辺のものが死刑になったがこれは冤罪と判明した。また法術官僚、酷吏(『史記』より)という、厳罰志向の官僚の増大によって刑死するものがあとをたたなかった。

 武帝の死後、幼少の昭帝のときクーデター未遂がたてつづけにおこった。

 昭帝の死後官僚のカク氏が実権を握ったが、やがて族誅をうけた。宣帝は法術と儒術を巧みに用い親政をおこなった。つづく元帝は儒家官僚を重用した。彼らは尚古主義によって時代錯誤の政策を推進した。

 つづいて王莽が儒教的な卜占を捏造して帝位を簒奪し、国号を新と改めた。王莽は官制改革をおこない、儒教の国教化を進めた。これらの政策は後々まで影響を残す。王莽政権の末期、農民たちの反乱(赤眉の乱)と南陽劉氏の反乱がおこる。劉氏の劉玄が洛陽に王朝を立て更始帝となる。この更始帝は政治運動化した赤眉の乱によって敗死する。結局、劉氏の劉秀が光武帝となる。

 光武帝年間は地方豪族や異民族の平定をすすめる一方、『漢書』や『説文解字』などの書物が著されるなど、文化的に栄えた。王莽政権の時代から、非政治的な逸民とよばれる知識人たちが生まれた。彼らは山林のなかで書を読み仙人のような暮らしを営んだ。

 武帝よりはじまった異民族地域の郡県化は、異民族が成長するにしたがい矛盾をきたした。越人や高句麗人は常に王朝に反抗し、また陜西省近辺にすむ羌族西蔵系)が大反乱をおこした。弱体化した匈奴鮮卑に征服されるが、鮮卑は統一後まもなく分裂する。

 

 こうした矛盾を経て漢帝国は崩壊していくが、周辺異民族にたいする中華思想、王化思想、サク封関係、また儒教の国教化、郡国制・郡県制という基礎は漢代ののちまで残ることになる。

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 王莽の簒奪を含め、卜占や占いによって国政が揺れることが多かったようだが、ほんとうに迷信を信じていたのか、それとも方便だったのかが気になる。

 

秦漢帝国 (講談社学術文庫)

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