うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『ミメーシス』E・アウエルバッハ

 ヨーロッパの文芸がいかに現実をとらえ文章化してきたかを論じる。古典古代から徐々に時代を下っていく。

 

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 ホメーロスの物語は舞台や人物、過去すべてが前景にせり出し、照明をあてられたような、遠近感のない、明快な世界である。人物の心理も比較的単純で、行動する際には必ずわかりやすい台詞を発する。

 『オデュッセイア』における過去・挿話は、挿入されると現在としてせまってきて、物語を完全に中断させる。緊迫感を高めていく悲劇の手法とは対極にあり、著者によれば、登場人物と舞台の勢ぞろいした壁画のような世界をつくりだしているらしい。

 ホメーロスの方法と対称的なのが旧約聖書である。『オデュッセイア』のようなきらびやかな形容詞はほとんどなく、細かい場所や動作も省略されており、あいまいで不確定、抽象的である。心理もほとんど語られず、台詞も少ないが、旧約の人物はホメーロスの描く人物よりも深い背景や葛藤を抱いている。さらに旧約の物語全体が神の実在と神の説く教訓に従属している。このため、物語としては旧約は断片的である。

 

 いわく、ホメーロスと旧約、相対立する二つの文体が、後のヨーロッパ文学に大きな影響を及ぼしている。

 

 『サテュリコン』のペトロニウスが物語の人物や出来事すべてを喜劇的な調子で書いているのにたいし、新約に出てくる人物は、さまざまな階層の人間だが、みな深刻な、まじめな調子を帯びている。ペトロニウスにあっては、登場人物は「それぞれ別個の人間でありながらみな同類であり、いかに浮き沈みがあろうとも、きわめて卑俗な、月並みな運命をもっている」。一方、福音書の登場人物はみな確固たる個性を獲得しており、彼らの行動や出来事はその時代、場所を越えて、神の世界や旧約の世界につながっている。

 帝政期の高級軍人・歴史家アンミアヌスの文章は、バロック的な、おどろおどろしい雰囲気、人間性を欠いた不気味な人物たちの挙動で満ちている。時代が下り、グレゴリウスが『フランク人の歴史』を書くころには、ローマの文化は衰退し、野蛮人の暴力、暴行、殺人が地上を支配するようになる。ペトロニウス、アンミアヌスなどの技巧的、装飾的なラテン語、文法的に整い完成したラテン語は現実を描くには適さなくなり、グレゴリウスの用いるような素朴で、感覚的なラテン語が、粗野な現実を模倣するのに最適となる。グレゴリウスの文体には、アンミアヌスのような重々しさ、荘重さはない。語られる内容もローマ帝国の政治的に重要な事柄、洗練された貴族や市民たちの言動、隠蔽・婉曲的な手続き、言い回しではなく、野卑な抗争、暴行、殺人である。

 『ロランの歌』は次のように評される。

 ――フランスの英雄叙事詩の文体は、現実の構造が極度に固定化されたままの荘重体であって、時間的な距離、パースペクティヴの簡素化、身分の限定化によって限定されたごくせまい範囲の客観的生活しか表現することに成功していない……この文体のねらいは、現実生活の領域から英雄的な崇高な領域を聖別することにある。

 社会の上の階層(騎士、貴族)しか描かなかったにもかかわらず、彼らと庶民の知的文化レベルがさほどかわらなかったために、こうした英雄叙事詩、武勲詩は民衆の支持を得ることができたのだという。

 キリスト教の民衆劇、ダンテの文体については、地方語(トスカナ語)などのあまりに細かい分析が理解できない。「ダンテの言葉はほとんど信じられないほどの奇跡である……彼の表現には比較にならぬほど多くの豊かさ、現在性、迫力、そして柔軟さがある」という。要はこれらの作品を経て現実描写の手法、幅が広がっていったということらしい。

 

 崇高と卑俗ということが本書ではよく問題になる。題材が崇高であるか卑俗であるか、また表現する文体が崇高であるか卑俗であるか、が作品を読む上で重要な基準となる。ダンテの場合、卑俗な話題(近い時代、同時代の人物や出来事)、「卑しくリアリスティックな生活環境」を描きながらも、また地方語や俗語からの表現を使いながらも、「彼独特の処理と形成によって初めて崇高になった」。ダンテの文体はキリスト教民衆劇や中世叙事詩の素朴さを完全に脱し、重々しい荘重体となっている。

 『デカメロン』のボッカチオは、ダンテの言葉遣いに影響を受けながらも、より軽快で世俗的な文体を用い、また題材も世間的な笑い話などが主となっている。一方、ボッカチオよりも一世紀新しいド・ラサールの物語は、ボッカチオよりもはるかに中世的に、異質に感じられる。いわく、ド・ラサールの文体は「ひきずるような重々しい、単調なテンポの印象を与え、しかもそれは壮大なのであ」り、古典的でも人文主義的でもない、中世的な、身分に規定された荘重体である。しかしこれは時代から乖離している。

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 ラブレーの文体は様式混合であり、さまざまな文体、調子、博識、声の合成である。彼には古典古代からダンテにいたるまで見られたような固定された視点がない。非キリスト教的であるばかりでなく、後の啓蒙主義のように固定された態度からキリスト教と距離を置いているわけでもない。彼は自然をそのまま受け止め、柔軟に文体を駆使している。ほかの本では、ラブレーの文体はバロック的とも評されていた。

 モンテーニュもまた古典古代から離れた文章を生みだしている。彼はルネサンスの当時におこりつつあった学問や知識の専門分化に反抗して、自己自身だけを問題にする省察をおこなった。彼の自己分析は泰然自若とし、冷静さが保たれており、悲劇的な高揚をすることがない。このため、彼の存在の悲劇的性質は、もしあったとしても、描かれていない。

 シェイクスピアは古典古代以来のあらゆる様式分化と対極の、様式混合に位置する作家である。シェイクスピアの劇の文体は崇高、卑俗、庶民的、貴族的とあらゆる声が渾然一体となったものである。

 ――彼は、現実を包括しながらしかもそれを超えているのである。

 彼の作品は「童話的あるいは空想的・遊戯的あるいは超現実的・悪魔的な世界へ逸脱しようとする傾向をしばしばみせる」。また、臭いなど、生物的・肉体的な表現が多い。

 彼が、悲劇的である、悲劇に値すると考えるのは身分の高い人間だけである。平凡人や卑しい身分の人間はだれもが喜劇的に描かれ、またたとえば王侯であってもリア王のように道化にこきおろされる。悲劇的とされる死も、骸骨や、屍臭といった中世的な表現を与えられている。彼にとっては平民の人生は悲劇に値しない。

 

 フエンテスや大江によるような、深遠な解釈をほどこされる『ドン・キホーテ』だが、著者はこの本に悲劇性や人間の本質に迫るような姿勢はないと主張する。『ドン・キホーテ』は純然たる喜劇、滑稽な物語であり、セルバンテスは現実の問題や矛盾を浮き彫りにしようともしないし、なにごとかを批判しようとすることもない。異常で間違っているのは常にキホーテであり、この狂人を置くことで、彼は日常の現実を批判や価値判断なしに描こうとした。「日常の現実をこれほど広くあまねく、多層的に、それでいて無批判的に、そして無問題的に描こうとしたものはヨーロッパにその後ない」。セルバンテスの独創性は、人物造型の力、人物を状況にあてはめて動かす力、状況事態を発想する力にある。

 モリエールコルネイユラシーヌらフランス古典主義はギリシア悲劇を模範とし、様式分化の極致である、悲劇的な厳粛さをもつ作品を生み出した。これらの劇においてはいっさいの実務的、日常的、肉体的な要素が排除されているが、当時の劇作家や観客たちは、教養に富み、均衡が取れており、道徳を有することを自然・合理性の観念と結びつけて考えていた。

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 フランス古典主義の劇、およびその前後のヴォルテール、アヴェ・プレヴォーなどにはあまり関心がわかなかった。

 

 現実と距離を置いたゲーテ、市民悲劇を書いたシラーを経て、スタンダールバルザックと時代が下るにつれて近代的リアリズムが誕生する。スタンダールバルザックは、どちらも人間を社会的歴史的環境の下に置き、また同時代の現実や日常生活を悲劇的・深刻に描いた。このことが、日常を喜劇的・滑稽に描いた、それまでのリアリズム作家(フィールディングなど)と根本的に違う点である。バルザックにおいては、貧民はもれなく聖者か英雄になり、ちょっとした欲望はたちまち野望に、悪人や悪党は悪魔になってしまう。メロドラマの次元にまで押し上げられていると著者は評する。

 フローベールは前二者とは異なり、「公正無私の、非人称の、即物的なリアリズム」を用いる。市民の日常生活が深刻に受けとめられてはいるが、前二者のように語り手が出てくることがない。

 フローベールはほかの同時代の芸術家と同じく時代を憎んでいた。彼は『ボヴァリー夫人』において、「特定の破局によって生じた」のでない悲劇、「つかみどころのない無形の悲劇」を表現した。

 ――そこには何も事件が起こらない。だが、この何も起こらないということが、およそ重苦しい、陰鬱な、恐るべきことなのだ。

 カフカベケットがとりあげてきたような主題がすでにフローベールにおいて描かれているという。この作家の文体は、これまでの崇高・卑俗の分類にはあてはまらないという。著者はフローベールの文体を「即物的な厳粛さ」と名づけている。悲劇的な色調を与えることなく、またモラリスト風に現実に判断を加えることなく、心理学者かなにかのように実証的に日常を描くことを示している。また、即物的ながら結果的に現実批判にもなっているという。

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 フローベール以降、発達した市民社会と強くつながった作品がフランスにおいて生み出される。ゴンクール兄弟やボードレールは市民社会を軽蔑し、また読者の趣味を攻撃した。いっぽうゾラは下層社会の現実や問題を厳粛に描き、バルザックを受け継ぐ作品を生んだ。

 ドイツではフランスのような都市・市民の発展が見られず、こうした厳粛なリアリズムはまだ生まれなかった。イギリスにおいても、ヴィクトリア朝の社会が安定していたため、社会経済的状況と人間を結び付けようという強い傾向は見られなかった。

 ヴァージニア・ウルフ『燈台へ』では、多数の人間の主観が意識の流れ、内的独白の手法によって表現されている。「これは、唯一人の人物、それも一般にきわめて特異な人物の語るにまかせ、その人物の現実の見方のみによりかかる単人称の主観主義とは、本質的に異なる」。ウルフは数人の意識を描くことで問題の人物を多層的に描こうと試みる。

 ウルフの作品では、現在の時点での客観的な事実は、外枠の事象ではとらえられない事柄を描くためのきっかけにすぎない。ウルフの方法を突き詰めたのがプルーストである。

 ――彼の手法はもっぱら、記憶の中に失われた現実を再発見すること、それを外面的には一見まったくささやかな偶発的な出来事を契機にして復活することを目的としていたのである。

 ジョイス、プルースト、ウルフに限らず、ジイド、マン、ハムスンなども同様の試みをおこなっている。大戦を通してのリアリズム小説の「多人称的意識の描写、時間の重層性、外的事象の脈絡の解体、語り手の視点の移動」といった特徴を、著者は映画の出現と結び付けている。映画のできることと、言語芸術のできること、すべきことの違いが明白になったのである。これらの作品にあっては、外的な事件はほとんど重視されず、発生もしない。「人生のいかなる時点における生活の断片にも、その人の運命の全容量が含まれており、その断片を通じて描出されうるのだ、という確信が生じるようになった」。

 著者はこうした表現方法の生まれた背景を歴史の流れおよび人間社会の変化に見出している。いわく、世界の平均化、一様化はさらに進むだろう。

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 現実をどう扱うか、表現するかというのは小説の根本問題である。また、崇高と卑俗というくくりそのものがひとつの基準でしかない。

 現実の模倣という観点から西洋文学の歩みをたどった大作だが、20世紀初頭にかけておこった新しいリアリズムの作品については未読のものが多かった。

 

ミメーシス―ヨーロッパ文学における現実描写〈下〉 (ちくま学芸文庫)

ミメーシス―ヨーロッパ文学における現実描写〈下〉 (ちくま学芸文庫)

 
ミメーシス―ヨーロッパ文学における現実描写〈上〉 (ちくま学芸文庫)

ミメーシス―ヨーロッパ文学における現実描写〈上〉 (ちくま学芸文庫)