うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『悪の哲学』シェストフ

 時代がかった大仰な文体でドストエフスキーニーチェを語る。これら二人やトルストイの著作に見られるニヒリズムとはなにかを論じ、ニヒリズムから逃れるために生み出された理想主義を非難する。

 シェストフは理想主義と道徳が人間を悲劇に追いやるものとして否定する。理想主義はすべて状況の産物であるという主張は、歴史主義と一致する。しかしトルストイに対しては、科学をかたくなに否定しキリスト教人道主義、中庸の思想を発展させた者として評価しているようだ。

 一般に理想主義的とよばれるトルストイの文学を評価して、一方で理想主義を批判するとはどういう構造なのか。

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 人間の悲劇について語るときに出てくるのは死刑執行人や暴君ではない。人間の生み出した悲劇のひとつが理想主義である。

 ――自分自身を専制君主だとみなし、自分への服従を拒否するすべての者たちを、拷問と死刑に価する、不遜なる反逆者だとみなすような権利を与える至上命令を、理想主義は、我が身にしつらえていたのである。

 理想主義は道徳をつくり、そこからはずれた考えは狂気とみなされる。人びとは狂気をおそれそこへ踏み込むことをやめる。ドストエフスキーニーチェはしたがって狂人とされた。彼らは著作を通して問いかけ、自分の考えをわれわれに観てもらおうとしたのである。二人の問いかけとは、「科学と道徳によって排除されてしまったような人間は、希望を持ち得るかどうか、即ち、悲劇の哲学は可能かどうか」である。

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 ドストエフスキー人道主義的作家として小説を書きはじめた。彼は師匠ベリンスキーのもとで学び、師匠以上に狂信的な人道主義者、フランス啓蒙主義の徒となった。

 彼の思想は『貧しき人びと』に典型的に見られる。彼はあるとき「精神的に生まれ変わり」、人間の暗黒面を描くようになった。シェストフによれば、この転回を引き起こしたのはベリンスキーとの決別でも、逮捕・懲役の経験でもない。牢獄の経験を題材にした『地下室の手記』さえ、たとえ囚人であってもみな人間であるという温和な観察に覆われている。

 西欧発の普遍主義を信じていたドストエフスキーがいかにしてそれを自由主義者として冷笑するようになったかを考えることに価値があるとシェストフは言う。四十歳になってもなお、彼は雑誌の論文で西欧主義とリアリズムを擁護し、スラヴ主義を批判していた。

 ロシアが農奴解放をおこない、人権思想がついに現実化されるかと人びとが歓喜のうちにあったとき、ドストエフスキーはひとり地下室に篭っていた。彼のまくしたてる西欧主義的発言と矛盾することばは、既に『地下室の手記』にも見られる。

 ――本当に、私に必要なものが何であるか、君は知っているかね? お前たちのような連中が消えてなくなること……実は、それを望んでいるのさ。私を、静かにさせておいてくれ。私が、静かに、そっとしておれるのなら、今すぐにでも、全世界をだって、ただの一文で売り渡したいくらいのものだ。全世界が消えてなくなるのと、私が、今、お茶を飲めないのと、どちらがいいかだって? いつでもお茶が飲めるとあらば、世界など、滅んでしまっていいさ。

 晩年の作品は、「良心と理性」に反してあふれる彼の絶望、要求を発露したものである。

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 ドストエフスキーが絶望にとりつかれたのに対し、トルストイがまったくお構いなしに人道主義的作品を書いていたのではなかった。彼は小説のなかで人間の絶望的な状況をいくつも書いた。しかし、これらの絶望はトルストイを虚無に導くことにはならなかった。彼はこうした虚無を「認識の埒外に追いやり」、「明るく、勇敢で、快活な」世界観と妥協して生きていくことを選んだ。

 もっとも心根の見えない人間は、ニーチェによれば、こうした底抜けに明るい人間であるという。

 ――かくして、厭世主義や懐疑主義と戦う方法のひとつが、先験的判断及びDing an Sich《物自体》の創造であった。簡単に言えば、それは、理想主義である。それを、トルストイ伯は、自分の言葉で、「善は神である」と公式化しているのである。
 この本においてはソクラテスプラトンは理想主義の先駆である。

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 シェストフ曰く、ニーチェキリスト教を奴隷道徳とし、キリストを「気弱な性格から英雄にまつりあげられた殉教者」と嘲ったが、彼自身もまた、恥辱にまみれた思い出しか持たず、プライドの異常に高い、自分の平凡さを認められない反狂人だった。彼が善悪の彼岸に見出したのは無だった。

 ――虚偽を人生の基本的な条件とみなすことは、もとより、手なれた人間的見地に対する、最も危険な矛盾に、足を踏み入れることを意味する。これを、あえてする哲学こそは、それだけでもって、《善悪の彼岸》に立つものである。

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 厭世主義、懐疑主義を認識の埒外に追いやる、白々しいまでに快活、勇敢な人間の体現が、例えば警察と軍隊である。治安を守る、国防を担う、これほど明快で、その意義を疑われない目標がほかにあるだろうか。

 議論自体はさんざん書かれ言われつくしたニヒリズム論だがこの本をきっかけに人間の思考を見直す意義は大きい。ドストエフスキーニーチェのなげかけた問題が自分のなかにも存在するだけでなく、そもそも人間のなかに常に存在してきたのではないかとおもう。

 最近読んだものでいえばレオ・シュトラウスの本はひたすら本書やニーチェドストエフスキーと同じ問題を扱っている。

 そもそもニヒリズムを迂回するために宗教や思想、富は生まれたのではないだろうか。

 

悪の哲学 - 絶望からの出発 (1967年)

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