うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『西洋法制史』勝田有恒・森征一・山内進

 古代から現代までの、ヨーロッパ、とくに大陸における法制度のうごきを説明する本。大陸部についてくわしくかかれており、イギリスについては付属としてふれられている程度である。

 まず、西洋における法の特性が延べられる。「第一に、ヨーロッパ法は一貫して「権利の体系」だ、ということである」。もうひとつの特徴は「中世以来の学識的法文化である」。また、ヨーロッパにおいては古代から法そのものを重んじ高く評価する傾向があった。

 古代の法については、ローマ法とゲルマン法という区別がかつては用いられたが、今ではそれ以外の影響も指摘されており、完全な定義ではなくなっている。古代法の特徴は、呪術的・宗教的な性格、家父長制である。やがて、ローマが都市国家から地中海商業帝国となる過程で、ローマ法においては「合理主義的な法システムが発達して宗教・道徳との峻別が進み、古代法の特徴がきわめて希薄になった」。

 ローマ帝国が解体し、フランク王国の時代から封建主義の時代、さらに近世へと移行する。

 フランク王国時代、国家は宗教と密接に結びついており、「広義の教会」だった。封建制は中世ヨーロッパ固有の制度であり、「土地の貸与を前提とする双務契約に基づき、保護と勤務の相互的義務を負う関係」をいう。封建社会は自立的・地域的権力の存在を前提とするため、法圏が地域ごとに異なった。また、身分によっても適用される法が異なり、さまざまな法が絡みあっており、「慣習が大きな意味をもった」。

 やがて聖職叙任権闘争がおこると、教会と国家が分裂し、国家は世俗権力推進のためにローマ法の研究を発達させ、教皇を頂点とする教会はカノン法を生み出した。カノン法はローマ法とともに普通法(ユス・コムーネ)となり、ヨーロッパ各地に影響をあたえた。

 近世、16世紀のはじめから300年間のあいだに、ローマ法の継受がおこなわれた。身分制国家は司法・行政の恒常的な組織を必要としたが、そのとき用いられたのがローマ法と、ローマ法を学んだ学識者である。しかし、ローマ法を産んだ中世法学は人文主義運動によって批判され、「さらに継受ローマ法の妥当性に関する普遍的キリスト教的世界観に基づいた理念的根拠は宗教改革後の宗派対立のなかで通用しなくなっていく」。

 三十年戦争後、絶対主義国家の時代になると、社会の紀律化がすすめられた。自然法論と啓蒙主義が、国家を運営する上での根拠となった。自然法論とは「普遍的な人間理性に対する確信」を特徴とする。

 フランス革命後のヨーロッパに浸透した法システムを一般に「近代法」という。近代法の特徴は、「すべての人間が自由な権利主体である」という名目である。個人主義自由主義を根底に持つ近代法の3大原則が、「人格の自由・所有権の絶対・契約の自由」である。このような理念は身分制社会の解体と市民社会の成立によって出現した。

 ――これに対し、19世紀末頃から個人主義の欠陥を補う形で、「社会法」という新しい法分野があらわれた。この社会法を包括する法体系は、近代市民法と区別して「現代法」とよばれる。

 近代法システムは抽象的・普遍的な法概念をもち、前近代法のような具体性・個別性をもたない。よって、「人」「物」「契約」といった概念を中心に構築されている。また、ケース・バイ・ケースの法規範を蓄積してきた前近代法と異なり、体系指向をもつ。公法・私法の二元体系が生まれたのも近代法においてである。

 以上、ヨーロッパにおいては、時代の変化にあわせて、主に学者が法システムを改良してきたことがわかる。戦争や革命によって法制度は激変しているが、イギリスの場合は大陸と異なり、徐々に変化したという。本書では英米法への言及が少ないので、ほかの本を読んで調べたい。

 

 ほか、細かい事項……ローマ共和政下の軍隊は自弁で武装した市民だった。彼らは戦争に参加し、民会に参加する権利をもっていた。ローマの領土が拡大し戦争が長期化すると、市民だけでは戦力を補完できず、志願制によって無産者に門戸をひらいた。この無産者は自分を雇ってくれた将軍にたいし個人的忠誠を誓ったため、軍司令官の私兵となった。

 カエサルの養子オクタウィアヌスがアクティウムの戦いに勝利しローマの平和を確立すると、彼は「アウグストゥス(至尊)」の称号を得た。かれは30万人の常備軍を設置した。

 ゲルマン社会におけるフェーデ……ゲルマン社会では家族同士の抗争が常態化しており、親族の血讐はフェーデとよばれた。ゲルマン社会では、犯罪の概念はフェーデ事件とアハト(平和喪失)事件に分かれていた。アハト事件は「人民や国家自体の法益が侵害された場合」と「破廉恥事件」に分かれる。アハト罪にとわれたものは万民の敵となり、「人狼」となって森のなかに逃げるしかなかった。

 6世紀、東ローマ皇帝ユスティニアヌスはローマ法を編纂した「学説彙纂」をつくる。これは「会典(パンデクタエ)」ともよばれ、「近代法及び近代法学の形成と発展に決定的な影響を与える」。

 都市の発展もまた法システムの変動のうえで大きな役割を果たした。糾問訴訟はよく魔女裁判とむすびつけられて否定的に語られるが、訴訟手続きを制度化した点で一定の意義はある、と著者はいう。

 自然法学のあとに歴史法学がおとずれた。歴史法学の先駆であるサヴィニーは、「普遍的な理性の法を前提とする自然法論に真っ向から衝突した」。彼にとって法典編纂とは、「民族とともに生成した法をそのまま採録すること」であり、既存の法を顧慮しなければならない。サヴィニー以後に展開された歴史法学派は、歴史的方法と体系的方法の結合を特徴とする。

 イギリスにおいては、メインが歴史法学を担った。かれは『古代法』において、「身分から契約へ」という法の漸進的進化をえがきだした。かれの理論は19世紀の進歩史観に強く影響されている。

 

 本書で説明される法の変遷は長期にわたるので、この本を一回読んだだけですべて身につけ、理解するのは不可能である。あらすじと断片でもいいからまずは触れることが重要である。

 

概説 西洋法制史

概説 西洋法制史