うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『人性論』ヒューム

 だいぶ昔に読んだので今読むとどう感じるかはわからない。

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 ヒュームは外界のできごとを観察するあらゆる学問の前提に哲学をすえた。なぜなら外界の観察をおこなうのは人間であり、人間の性質を理解することがあらゆる観察の基盤となるからだ。

 プラトンは自然界の研究から、人間と人間集団の研究に関心の対象を移したがわたしはそれがなんでかわからなかった。ヒュームの本を読んで人間があらゆる観察の根源であることを理解した。

 ヒュームによれば知覚は印象と観念に分かれる。印象は感覚器官から受け取る直接的な知覚であり、これより複雑な知覚は観念に分類される。感覚器官から受け取る知覚よりほかに、われわれは外部を知るすべを知らない。よって、外部が存在するとかしないとかいうことはできない。

 観念はわたしたちの記憶をつくり、観念は印象から生まれる。観念は、類推や近接といったはたらきでお互いに結びつく。

 ヒュームの哲学でも有名な主張に、因果関係もわたしたちの知覚の産物であるというものがある。まず、印象ともうひとつの印象が原因結果の関係にあるということを、知覚の経験から導きだすことはできない。ある2つ以上のものごとが因果関係にある、と考えるのは、われわれがそれら2つの観念を連合させるからである。

 ここまでで、外部にわれわれから独立した事物が存在する、もしくは、それらが因果関係をもつ、という説の誤りを指摘した。事物はふつう、現在そこにあれば、次の瞬間もそこにあると考える。しかし、わたしたちが知覚していない時も、あるものがそこに存在し続けていると、なぜ言えるのか。

 わたしたちはある一点で得た知覚と、その次の瞬間に得た同じような知覚を観念に変え、おそらくその事物はずっとそこにあるのだ、と解釈しているにすぎない。

 最後に、われわれ自身、つまり自己についても、確固たる基盤を持っているわけではない、とヒュームは主張する。ヒュームによれば、われわれは堆積した知覚と経験の束である。われわれの知覚と経験は記憶によって結びつけられている。だから自己を一貫した、連続性を有する人格としてとらえるのである。

 人性論の後段は情念と道徳についての説明である。情念にも、知覚と同様、印象的なものと観念的なものとがある。快や苦といった原始的な印象は、知覚の印象に反応して生じ、これが観念とともに複雑化することで、自尊や卑下といった入り組んだ情念となる。

 道徳について、ヒュームは自然法的な考えを否定する。道徳はわれわれの快・不快・苦の印象から生まれたものである。

 

 『人性論』の次に『原始契約について』という小論が載っている。

 社会契約論は非現実的であって、事実に少しも基づいていないという主張だが、わたしはその通りだとおもった。統治者はほぼ必ず暴力や陰謀によって目的を達成し、また市民は統治を委託したのではなく強制的に服従させられている。

 

 最後に、ヒュームの「理性」の使い方を考える。

 ヒュームにとって理性とは、ものの真偽を見分ける能力であり、観念と知覚が正しくつながっているか、また観念の連合が知覚の対象を正しく反映しているかを見分ける能力である。よって、善悪や正義は、感情と情念を起源に持つから理性とは関係がない。理性は静かな力なので、人は単なる誤りや情念、習慣を理性と間違えてしまう。

 わたしが疑問におもった点は、理性の確実さである。そもそも知覚する対象というものが存在するのかしないのかわからない以上、ものの真偽を見分けることも不可能ではないのか。理性はわれわれが考えるほど絶対的なものではないと感じた。

 

人性論 (中公クラシックス)

人性論 (中公クラシックス)