古代から現代にいたる医学の変化と発展をたどる本。
1
医学は慰めと癒しの術であり、猿の毛づくろいから始まっている。古来、医者、看護師、外科医の仕事は分化されていなかった。外科の仕事は19世紀まで理髪師が兼ねるものだった。床屋のマークは、動脈、静脈、包帯を表している。
医学には病を治すという願望が託されたが、それが医学の地位を難しいものにしている。不老長生を望むことは、科学でいえば永久機関を追い求めることである。
2
紀元前、東西でブッダ、孔子、ソクラテスといった思想家が誕生した時代に、医学の祖であるヒポクラテスが誕生した。かれはイオニア自然学を基礎として、病気の原因を科学的に求める姿勢を貫いた。
かれは身体の中に体液が充満しており、この体液の均衡が崩れることですべての病気が生じるという体液病理説を唱えた。病気は局所的に、個別に生じるのではなく、単一のものであると考えられた。
3
プラトンの時代、アレクサンドリアにおける精密科学の時代にも、医学は体液病理説を基盤として行われた。
医学(内科)と外科はまったく別の領域と考えられており、これが統一され始めるのは、解剖学が盛んとなったルネサンス以後である。
4
イエス・キリストは巡回診療士として名を上げた。かれは精神錯乱や盲目、癩病といった慢性の重障害を扱った。
紀元前後、ギリシア生まれのガレノスが解剖学を発展させた。その後、中世の間、医学はキリスト教が主として担った。教会や修道院は病院施設をつくり、乞食や売春婦を救済し、病人を収容した。
5世紀と14世紀にはペストが大流行した。14世紀、他国から船舶が来航すると疫病が広まることから、一定期間検疫することが重要ではないかと考えられた。これが「公衆衛生」の概念の起源である。
――ヴェネチアは、東方からの人や荷物が上陸する主要港であり、当時は、「忌まわしい」事物は、疫病も癩病も含めて東方に起源する、と信じられていた。
5
インドと中国における医学の発展。古代において、医学の文化はアラブとインドと中国に存在した。
6
古代ギリシアにおいて発展した医学その他の文化は、アラブ人とシリア人によって翻訳、継承された。シリアとは現在のシリア共和国よりも広い範囲を指す。
アラブ人の医学者としてアル・ラーズィー、アヴィセンナが挙げられる。また、コンスタンティヌス・アフリカヌス、イヴン・ルシュド(アヴェロエス)、マイモニデスも医学者として名を遺している。
7
ルネサンス期には、中世神学に縛られた大学ではなく、芸術家たちの間で医学が発展した。芸術家たちは万能人として医学や解剖学にも貢献した。
8
ガリレイ、ハーヴィらが、科学的思考に基づき医学研究を行った。
9
近代に入り、医学はさらに発展した。医師ジェンナーは牛の天然痘からワクチンを作りだす技術を開発し、vaccinationの語の由来となった。vaccaとは牛の意味である。
医療行政、公衆衛生についての概念もこの時期に発達した。その背景には大規模化した戦争と、複雑な創傷を作りだす兵器の発達があった。こうした事態に対処するため、政府は医者の養成を図り、また治療技術、解剖学を向上させた。
10
感染症に関する知識が向上し、病原体の特定、免疫の発見が行われる。パスツールはニワトリコレラ、脱疽、ブタ丹毒のワクチンを開発し、畜産業の効率を上げた。また狂犬病の治療法を発見した。
コッホもまた結核やコレラの原因が細菌にあることを突き止めた。かれの弟子、エーベルト、ガフキー、ハンセン、ラヴマン、北里柴三郎、志賀潔らも病原菌を発見した。
リスターは殺菌法及び無菌法を開発した。
1853年から1856年にかけてのクリミア戦争では、感染症により数十万の死者が出た。ナイチンゲールは野戦病院を組織し活動した。また、アンリ・デュナンは戦場の悲惨さに触発され赤十字を発足した。
11
日本における医学の歴史。渡来人や中国、朝鮮からの東洋医学の輸入から、オランダ医学の導入へ。さらにイギリス医学とドイツ医学に触れるが、日本はドイツ医学を選んだ。
12
近現代における医学の発達について。内分泌学(ホルモン)の研究、ビタミンの発見、感染症と免疫学の進展、外科技術の向上等。
***
時代ごと、人物ごとに区分けされてはいるが、どのように発展したかは理解しにくい。病気に対して、観念的な捉え方から、個別的な、局所的な捉え方に変化していくという大きな流れについて知ることができた。
解剖学が発展し、個別の症状に対して個別の対処が行われるようになる。また、原因の究明についても研究が進められ、公衆衛生のための制度や設備が整えられていく。
19世紀の医学においても、間違った認識や空想的な概念が普及していることに気が付く。そうした古い説が完全に覆され、徐々に科学的な知識が確立されていく。知識と技術の向上は驚異的である。